編集Aのいろいろ雑記(主に映画や本をきっかけに思ったこと、又は感想)

(C)
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【本読んだ話】 

@「ディブ・ペルサーの著作」と「愛を乞う人」

A「アルジャーノに花束を」と「ある日本の小説」

B「刑務所のリタ・ヘイワース」を読み終えた、素晴らしかった時のこと

【映画観た話】
     --評判の悪かった映画特集-- 

@「ショーガール」と「パリ、18区、夜」に学ぶ汚職の不思議

A「だいじょうぶ、マイフレンド」は面白い映画だったし、広田玲央奈はとても素敵だった

B封切り時、日本では大不評 「G.Iジェーン」 (BとCは内容つながってます)

C映画「レニ」 レニ・リーフエンシュタールの過ちは何だったのだろう (BとCは内容つながってます)

D 「追悼レスリー・チャン」 (News letter vol.3 2004年6月26日発行)

E映画「モンスター」他からの頂きもの「不幸な過去を乗り越えるためのポイント」

F映画「ヴェロニカ・ゲリン」と高校生のある経済汚染 (News letter vol.6 2005年11月30日発行)

G映画「紅夢」 − どんな女なら上手くいくのか? (News letter vol.10 2007年8月31日発行)

H「何の主義なら上手くいくのか?」  ((News letter vol.13 2009年2月22日発行)
    −映画「チェ 28歳の革命」 「チェ 39歳別れの手紙」を観て−



【映画観た話】
     --評判の悪かった映画特集-- 


@「ショーガール」と「パリ、18区、夜」に学ぶ、汚職の不思議

 私はこの二つの映画を観て、世を騒がす「公的機関の汚職」の不思議の背景を
少し理解することが出来ました。(はは)

 この映画の登場人物は「公的機関」の人たちと違って、どちらかというと大して恵まれない
不安定な立場の人たちが多いです。
 だから二つの映画と「汚職の不思議」の話は直接は関係なしです。

 私はこの映画二つを観るまで、なぜ「公的機関の偉い人」は別に貧乏でもない人でも
代々悪いことする人が多かったんだろう、と不思議だったのですね。
 公務員関連は一生安泰で勤められる良い職場なのに、なぜ「汚職」というリスクを犯すんだろう?
 私から見ると地位もお金も一杯あるのに、何が悲しくて悪いことをするんだろう?と。
 欲には限りがないのかもしれないけど、それにしても不思議だなぁ、と。

まず二つの映画の説明です。

「ショーガール」(1995年アメリカ・監督ポ−ル・バ−ホ−ベン)
「パリ、18区、夜」(1994年フランス・監督クレール・ドニ)

(あらすじ)

 巷の映画評で「ショーガール」は最低の映画扱いの酷評と、あと面白いので高得点の
二つに分かれていたと思う。
 「ラスベガスのショーダンスの世界、女性はラスベガスの経済の中で消耗品であり物的扱いという状況、
どろどろした男と女の間柄、役を狙う女同士の卑劣な激しい争いの映画。
 場末のストリップダンサーのノエミは、ラスベガスのトップダンサー・クリスティの座を奪い取る
ことができるのでしょうか。(後は観てのお楽しみ)

 「パリ、18区、夜」はパリの歓楽街の匂いを控えめにでもリアルに描写している、割と評判いい映画でした。
 封切りの時の映画評も絶賛が多かった。
 確かパリのマスコミ関係の大成功した有名女性が
「もし地球が終わるとしたら、私はそのときにこの映画を観ながら死んでいきたい」というような意味の
ことを書いていた。
 その意味が不思議に思えて知りたくて、観に行ったようなものでした。

「パリの映画監督に、”女優にしてやる”と言われてリトアニアから叔母を頼って出てきた絶世の美女、ダイガ。
美貌ながら真面目で働き者の彼女。でもパリに来てみたら女優なんて話は夢また夢で、
叔母の経営する安ホテル、低賃金で客室清掃等の仕事を黙々と続ける日々。女優の夢は遠ざかるばかり。
そんな中でホテルとパリの歓楽街の18区に関わる怪しい人間たちと顔見知りになる。
美しいゲイの女装歌手や、何をして食べているのか分からない人間たち。
偶然殺人事件を知ることになった彼女は、ついにあることをしてしまう」(後は観てのお楽しみ)

(見どころ)・・個人的解釈です。

正直言って、やってることは許せないながら
おきまりの女同士のドラマによくあるどろどろした「足の引っ張り合い」とは、
「ショーガール」の主人公ノエミと女王クリスティは一線を画していましたね。
 ノエミにとって福の神でも疫病神でもあるクリスティ。ノエミを引っ張り上げもするし
行く手を阻んだりもする。
 魅力たっぷりのダンサーであり、下品で乱暴で考え足りない、ひどい女ながら
純情で潔癖で真面目なノエミ。ダンス命。
 ダンサーとしても人格的にも女王の風格十二分のクリスティはクールで
情も品も知性もある、でも生活は堕落したラスベガスに染まった女性。

 実際この二人は悲惨な争いを繰り広げるのですが、
でもそれを決めて仕組んだのはクリスティのような気がします。

 「トップダンサーの座がほしかったら、あたしと同じことをするのよ」(と言わんばかりに)

 大劇場の女王・クリスティは、自分を引きずり下ろして、引退させる次の相手を自分で選んだのだと思う。
 多分昔の自分にとてもノエミは似ていたのだと思う。
 ノエミにからみながら、ノエミが這い上がってくるのを、自分たちが結末まで行き着くのを
心の中で微笑んで待っていたのだと思う。
 「かつての自分と同じことをするまで」は、決して許さないというカンジ。

 でもこの映画の女たちって精神的には同性愛ばっかり、っていう感じ。
(それはラスベガスの経済と男性が、女性を消耗品扱いするから自然そうなるのでしょうか)

☆で、この二つの映画の共通点は、顔も性格も全然似ていないそれぞれのヒロイン、
ノエミもダイガも「追い込まれていく」というところだと思います。

 真面目で、一生懸命けなげに(?)がんばって努力を続けてきた二人のヒロインは
それでも全然報われずに思うようにならない状況が続くばかり。

 そしてある時ついに一線を踏み越え、悪いことをしていまう。そして成功する。
二つともそういうテーマのある映画でした。

 「パリ、18区、夜」を”死ぬときは「観ながら」死にたい”と言ったパリの有名な成功した女性は、
別にこの映画の美しい「愛するパリの夜の光景」を見ながら死にたいと思ったに過ぎないと思う。
でないと、こんな所に堂々と書かないはずだから。
 でも「死ぬときは・・・」というコメントが、有名女性が公然と堂々書いているのでなければ、
これが誰にも聞かせない独り言だったとしたら、別の邪推をされたりするのかも。

 その人は昔このヒロインの「ダイガ」のように、真面目に働いてもチャンスも得られずに
ある日ついに「何かの一線を越えた」のではないでしょうか。(犯罪でないことでも良くないこと)
 そして心の奥底の一番ナーバスな部分に、それがずっと十字架のように重くのしかかっていた。

 (ぬあ〜んて、邪推ですし、絶対にこのコメントを発した方のような成功した有名人が公然と言っている
 ことの意味は、そういうことでないです)

 まあ、清濁併せ呑むとはいいますが、汚い手で他人の足を引っ張って落としたりすると
長い年月の間には、どうしてか報いが来ている場合が世の中を長いサイクルで見渡していると
多いと思います。

 だからこういう話も、悪いことする人の自己弁護になってはいけないと思います。

 で最初の話に戻ります。世の中には「この二人のヒロインのように貧しく恵まれない環境」でもないのに、
結構悪いことをする人がいますよね。
 もちろん「殺人や強盗」は、「恵まれている偉い人たち」は個人的には、しない人がほとんどです。
 異常人格者でない限り。
 一般にこういう人たちに多いのは、セクハラ以外では「汚職」ですね。
 でも貧乏でもない、資産家だったりする人たちも結構いる彼らがなぜ悪いことをするのだろう?
そういう疑問はビンボー人の無理解なのだと思って、理解しようと思いました。
 
 別に大したことではないのですが、
この二つの映画を観て納得したのは「汚職の不思議」の背景でした。

 近年公的機関の汚職騒ぎが世間をにぎわせない日はないという位。
別に公務員関係だけでなく、民間でも同様。

 こういうのは基本的にお金がほしいという理由で
悪いことに走るのだと思います。
 その欲望自体だけなら別に悪いことでないし、大なり小なり誰にでもあるものだと思う。

(しかしそのために犯される犯罪のために、世の中が良くなること、進化は妨げられ停滞していく)

(又「お金もうけ」はよくゲームにも例えられますが、「フェア」にやる方法を思いつかない人だけが、
手を出す「反則」が犯罪。そこにはもう純粋なゲームの愉しみはなしです)

 お金以外にも汚職の大きな理由が背景の体質にあるのだと映画のお陰で納得できた。
 割と資産家で恵まれた地位にいる人もいるのに、なぜ汚職をするのでしょうか?

 その組織で悪いことをする体質があれば、先にいた先輩は後輩にも同様に手を汚してもらわないと
困ることになる。だからその「特権」を先輩は後輩にも無理強いしてしまう。
 下の人も上の人の汚職を告発出来ないようにさせられてしまう。
 そして更に自分と同じように「悪いことに手を染める」という代償を払ってくれないと、
出世もさせてやりたくない。

 で本当は個人的に悪いことが嫌いでも、とにかく「出世」したい人はこの仲間に入らないとさせてもらえない。
 こうやって汚職の連鎖は続いていくのですね。

 「覇気のない女性」である私にはあまり理解できないのですが、
「出世大好き」という男性が結構いますよね。それは性なのか業病なのか。
(まあ、でも私も出世はいらないけど、「給料いい人」だけはうらやましいですね)

 政治も世の中のことにも疎い私が、この二つの映画を観たとき初めて
「ああ、だから世の中は中々良くならないんだなぁ」と理解できたような気がしました。

 だから、 何かこういっぺんにみんなでチャラにして、良い世の中になるといいのになぁと思います。

 だって汚職で盗まれている多額のお金は、本当は国民が暮らしやすくなるために
使われるはずだったお金なんだもん。



A「だいじょうぶ、マイフレンド」は面白い映画だったし、広田玲央奈はとても素敵だった

映画「だいじょうぶマイフレンド」(1984年日本・監督村上龍)

 この映画は散々な酷評だった。確か有名な外国の俳優ピ−タ−・フォンダを起用したため
余計「安易なやり方みたいに」言われた。
 それからヒロインの広田玲央奈は、ペジャールの二十世紀バレエ団の学校にいた女性だった。
 残酷なことだが腰を痛めて、もうバレエは出来なくなって帰国して女優となったデビュー作。
それが何かマイナスしたのだろうか?
 
 で、この映画のあまりの酷評ぶりにヤケになった監督・村上龍は自ら何の謙遜のつもりか、
雑誌のインタビュー等でこの自分の映画の悪口を言ってまわり、ついでに広田玲央奈のことまで
「日本人の体型でダンス映画なんて撮っても認められない」みたいなことまで言ったのだ。

 以後広田玲央奈はあまり出なかった。

 しかし、私は個人的には「だいじょうぶマイフレンド」はなかなか面白い映画だったと思う。
小説も怖い話だけど面白かったし、映画はなかなかの出来ではなかったでしょうか。
 更に広田玲央奈はとっても素敵だった。素晴らしかった。
 ああ、なぜ彼女はあんなに酷評されなければならなかったのだ。

 以後すっかりひねくれた感じの彼女は、脇でちょっと荒れた感じのする役が多かった気がする。
(全部は知らないが)

 ああ、時よもう一度。広田玲央奈さん、あなたは輝いていたよ。
 悲劇の後だったのに、過去を吹っ切ってがんばろうとしていた。

どうかお気を取り直して、素晴らしい女優さんになって下さい。

B封切り時、日本では大不評だった「G.Iジェーン」  (BとCは内容つながってます)

(1998年アメリカ・監督リドリー・スコット)

 「ヒロインのオニール大尉は女性でただ一人軍のエリート特殊部隊に入って、
男でも脱落者の多い特殊訓練を受けることになる。フェミニストの女性議員の思惑でそうなったのだが
かねてから実戦に出る希望のあったオニールにとっては最初で最後のチャンス。必死の奮闘を
女優デミ・ムーアが坊主頭に筋肉をつけて挑んだ話題の映画」

 最近アメリカで女性兵士が増えたせいか、昔ほどこの映画への抵抗感が薄れた気がします。
 封切り時日本での映画評はのきなみ酷評。世の人の嫌悪感さえ感じたほどのブーイングの嵐。
 
 顔に傷が入っても平気で戦場を目指すヒロインは「異常な女性」的扱いで、フロイト的解釈の評や
「フェミニズムのはきちがいの、勘違い映画」扱いetc.....。

 どの感じ方も間違っていない部分があるとは思った。私もこの映画嫌いだから。
 ただ女優デミ・ムーアの好演に惚れ直しただけ。

 この映画は当時「フェミニズム」の肯定のようで、実は男性監督の女性に対する皮肉を感じました。
「やれるもんなら、やってみなさい」みたいな。戦場は女性には難しい場所だから。

 私は戦争大嫌いだし、覇気も根性も体力もない女性なので「女性兵士」になるのは真っ平です。
(どっちかというとお嫁に行きたい)
 それに正直言って女性はやはり戦場に行くとハンディあると思います。だからそれを越えるのに
実際の女性兵士は大変な努力をしていると思う。
 ありがたいことにたまたま私のやりたい仕事は女性の多い仕事ばかりだったので、
彼らの辛さをちゃんと分かっていないとも思う。

 さてこの映画で感じたのは「フェミニズム」より、「女性と出世より」
ただ好きな仕事につきたい人間の必死さでした。
 ヒロインがつきたかった仕事が、たまたま男性しかいない職域に入らないと出来ないことだっただけということ。

 目がいったのはオニール大尉が元々は地形分析官出身だったこと。その頃からこの人は
軍略を立てることに自分の適性を感じていたし、実績も上げていた。
 軍略は「戦争に勝つ」ための作戦。
その国の軍隊が、どこからどういう方法でどういう人数配分でどう動くか。
 この世でもっとも難しい職業の一つだと思う。

 で新人が軍の命令体系の中で自分の立てた軍略を採用してもらうためには、
そして又軍略家としての実力をつけるためにも実戦に出て軍功を立てて上に立たないと話にならない。
 映画の中で訓練中、ただ一人の女性訓練生として同僚の男性たちに冷めたくされたり、
憎まれたりしながら、障害が多くて脱落しそうになりながら
始終いろいろな言葉(汚いスラングも含めて)や態度で彼女が叫び続けたのは、
「あたしは軍略家なんだよ、あたしを戦場に連れて行ってよ」ということなのだと思った。

 別に「男性になりたい女性」は全然感じなかった。
どちらかというと「歌手になりたい」とか「建築家」になりたいとか、そういう種類の必死さだけだった。
 この映画の中で彼女は女性の良さを軍の中で失わなかったし。

 ★で、映画はさておいて私は戦争は大反対です。
「およそありとあらゆる悲劇がぎっしり詰まったデパート」だから。
 あまりに残酷で非人間的だから、
逆にそれに遭遇した血の通った人間たちの、苦しみや残酷さや心の美しさがドラマチックに際立ってしまって、
「戦争という過ち」に特別に妙な魅力を感じる人がいるという、第二の過ちさえも起きる程。

 戦争は絶対に許されないことだと思う。
しかし多分「戦争をしない」ために世界はとてつもない高度な難しい問題を沢山解決できるように
ならなければいけない。
 人類が今までの歴史の中でかつて思いつかなかったような異様に高度なことを、
「戦争」の代わりに考えつかなければならない。
 世界が戦争をしなければ、その分で浮くお金は地球を様々な問題から救うのに十分な位莫大な
ものだという。
 ある意味でそれは戦争よりハードな問題を含んでいる。誰かそういう「ツワモノ」が現れて
考えてくれないかしらん。いろいろな分野と角度で。

 しょっちゅう新聞の政治・経済欄を飛ばし読みしたりする情けない私には
想像もつかないことばかりですが・・・・・。

C映画「レニ」 レニ・リーフエンシュタールの過ちは何だったのだろう (BとCは内容つながってます)
(1993年・ドイツ/ベルギー・監督レイ・ミュラー)
 
 レニ・リーフェンシュタールは世界映画史上の金字塔「記録映画・オリンピア」や今もドイツでタブーとなっている
ナチ党大会の記録映画「意思の勝利」の女性監督である。
 戦後「ナチの協力者」のレッテルを貼られて、数多くの裁判を戦い映画界からは追放され、
70才過ぎてやっと写真集「ヌバ」でカムバック。
 その後潜水資格免許を取得し88才で写真集「水中の驚異」を発表。
 2003年に101歳で亡くなるまで年齢を超えて精力的に活動。

 それらについて彼女自身は「世間の悪意が私をこんなに長生きさせたんだわ」と言ったそう。

 「レニ」はナチスドイツの協力者として不遇の戦後を送った女性監督の伝記映画。
 ナチスに協力したとみなされたアーティストは他にもいるが、他の人たちに比べて彼女に世間は
とりわけ厳しく冷たかったようだ。

 私はこの人のことをよく知らずに、亡くなられてからこの映画を観て知った。
 この映画の中に彼女が撮った「オリンピア」や問題の映画「意思の勝利」の一部を観ることが出来た。

 正直言ってこんなすごい記録映画を見たことがない。驚愕のカメラワーク。
映像とはこれ程すごいものか、と改めて思い知った。
 アーティストとしての彼女は筆舌に尽くしがたい。

 彼女は最初ダンサーで次には女優になった。マレーネ・デートリッヒと同時期に映画界で活躍。
二人は後にナチに対する態度の違いで将来の明暗が完全に分かれたが。

 映画監督としてこれ程の実力をつけるために、彼女は先の「G.Iジェーン」顔負けの荒業を続けねば
ならなかったようだ。
 出だしが山岳映画だったために、カメラをかついで高い山を次々よじ登った。
 当時のフィルムに、とり憑かれたような目つきで絶壁を登っていく彼女の姿が残っている。

 顔に焼けどをおい、凍傷になってもかまわずにカメラを回し続けている。
(後に治っていたのでホッとした)
 こういう修業時代を経て彼女が「最高の記録映画」を撮る監督の一人になっていくプロセスを
映画「レニ」ではじっくり見ることが出来る。

 彼女が「ナチスの協力者」となったのは、ナチスをスポンサーにして映画を撮ったからだ。
 ナチスの党大会の記録映画「意思の勝利」はタブーながらも最高の出来栄えで有名だ。
 レニ自身は政治にほとんど興味もなくて、ただフィルム代をはじめ莫大な費用のかかる映画撮影の
「素晴らしく気前のいいスポンサー」というのが、レニにとってのナチスだったという。
 映画監督としてのレニを、ヒットラーをはじめナチスの重要人物たちが最高に評価してくれたのだ。
 
 「ナチスは都合の悪い情報を国民に隠していたので、私はナチスの非道な行いを知らなかった」と
「レニ」の中で彼女自身が何度も繰り返していた。
 本当なのかどうか、ほとんど信じてもらえなかったらしいが彼女はそう繰り返していた。

 映画史上燦然と輝くと言われる「オリンピア」も「意思の勝利」も、そして老年期のアフリカの「ヌバ」も
「肉体の美」を撮ることがファシズム的だと非難され続けたという。これがファシストの証だと。

 ファシズムについてはよく分からないが、彼女が肉体を最高に効果的に撮れるのはダンサー出身だから
だと思った。振り付けもするダンサー。
 彼女は人間の肉体の動きと、その視覚的効果を知り尽くしていたのだと思う。
 ダンサーの多くは、ナルシズムと別の理由で生涯の練習時間のほとんどを
鏡ばりの部屋で過ごさねばならない。

 ファシズムと言われたのは「意思の勝利」があまりにスタイリッシュで美しい映像だったからだと思う。
 結果ナチスが美化され、ナチスに憧れる人間が増えたからだと思う。

 他の「ナチの協力者」と言われたアーティストの中で、戦後彼女がこれ程冷遇されたのは
映画があまりに素晴らしかったからだと思う。
 これほど素晴らしい映画でなかったら、プロバガンダの戦犯扱いにならなかったと思う。

 高校の時、図書館でユダヤ人の大虐殺「ホロコースト」の写真集をみて吐きそうになったことがある。
 ナチスがユダヤ人をなぜ差別したのかは分からない。歴史的には元々ユダヤ人差別はあったが、
ナチスのはあまりに酷すぎる。

 大恐慌の国民の不安を背景に台頭してきたヒットラーとナチス。
多分経済の底の尽きた当時のドイツにとって、ユダヤ人たちは魅力があったのかもしれない。

 ユダヤ人は金融業に優れている人が多く、世界屈指の資産家もいる。
 何万人の普通のユダヤ人の中に混じって一握り、
例えば何十人かの大資産家の金色のユダヤ人がいたとしたら。

 「ユダヤ人人種差別」という口実の元に、その一握りの大資産家達の資産を没収したかったのかもしれない。
 ナチスにとって雑魚同然の罪もない何万人のユダヤ人殺戮は、その中のひと握りの大資産家を狙った
国を挙げての窃盗のカモフラージュだったのかもしれない。
 中世の魔女裁判も相当な資金源となったというし。

 この辺のことは私は専門知識がないので、ちゃんと書いた本が調べれば沢山あると思う。
 もしかして真相は別のところにあるのかもしれないし。

 私はナチスをこれっぽっちも許せないと思うし、嫌悪感以上の恐怖しか感じない。
 集団が狂うと、こんな大惨事が起きるのかと思うと叫びたくなる程。
 ドイツ人が悪いとか、そういうことではなく
起きるべきでないことが起きてしまったのは、国籍に関わらずナチスが巧妙過ぎたのだと思う。

 でダンサー、次に女優、次に山岳映画監督。それから広く記録映画監督。
 これ程訓練が大変で、一人前になるのに時間のかかる職業を次々転々としてきたレニが
それ程世間を知っているとは思えない。他のことを全部捨てないと、これ程の業績は上げられないと思う。
 世間というか政治とか社会の状況とか、人間についても深く学んでいたように思えない経歴だと思う。
 女優さんで素晴らしい政治的活動をしてきた人は沢山いるけれど、
レニの場合は仕事が女優だけでないので、人生にゆとりがあるように思えない。

 おまけに関心は政治や社会のことより、アートに集中していたように思う。

 だからレニが「ナチスがそんな悪逆非道な人たちだと知らなかった」というようなことを言ったのは
本当のなのかもしれないと思った。疑わしいと思われる節も多少あったらしいが、
基本的に事態の本当の意味が分かっていなかったような気がする。
 これ程最高の知性を備えた人なのに、「映画を自由に撮れる喜び」に目がくらんでしまったのかも
しれない。(私は映画監督はおろか、自分がそんな状況になるということさえ想像もつかないので
政治的な意味でレニがどんな難しい立場にいたかも推し量ることは出来なかった)

 ただ超気前のいい「ナチスの国家」がレニにいくらでもフィルムを買ってくれて、
時間やスタッフを好きなだけ投入させてくれたのだと思う。
 気の済むように、納得のいく映画を撮れる、めったにない僥倖にめぐまれた映画監督は、
理性を失い、半ば盲目となったのだと思う。

 のちに世界に衝撃を与えた写真集「ヌバ」や「水中の驚異」の映像は、
ほぼ無尽蔵の資金源に支えられた、記録映画監督時代の彼女の仕事に比べるとやはり
満足のいかない部分がいろいろあったと思う。

 映像の仕事って、莫大な資金が必要なので本当に博打だと思う。
 私はそれをする能力も全然ないし、観るのは好きだけど映像を撮るのはまったく苦手なことを
ありがたいと思う。
 でも確かに難しい大きなリスクと常に背中合わせな分野だと思うが、多分喜びもその分多いことだけは
想像できる。それに沢山の人たちが力を合わせて、ひとつの作品が出来上がる。

 ★彼女のことを映画「レニ」で観て教えられたことの一つは、
人間の大きな落とし穴の一つについてだ。

 それは人が「ある能力を極限まで伸ばしたい」と思う欲求の怖さ。

 大抵の場合、これはとても大変なことなので人に迷惑をかけない限りは
他人がこれを非難する言われはないと思う。
 時間、お金、人は自分の人生をつぎ込んで、選んだ何かの修業を続けていくのだ。
 好きなこととはいえ、多くの人は何らかの代償を払って技量を上げていく。
 そのためにどんな辛いことにも耐えていく人も少なくない。(好きなことなので苦にしないだけで)
 これらは大抵良い成果が上がるので、社会もこれを大いに奨励している。
 個人のみならず社会全体が良い成果を受け取れるから。

 (ただ別にこういう「一芸修業型」人生だけが良いとは限らないと思う。
  バランス良くいろいろなことをして人生や人間性等を学んで生きるのも素晴らしいし、
  生活のためだけにしている仕事にいつしか熱中して、そこから組織や社会全体を学ぶ人もいる。
  どんな生き方を選ぶのかは、それぞれの人にとって運命なのかもしれない)

 アートだけでなく、科学等の学問、ビジネス、他何でも全ての追及。

 これらは何か別の目的があってなされることもあるが、
大抵は自己目的というのでしょうか、それ自体の追求の喜びがほとんどだと思う。

 科学やその他の発達がさほどでもなかった頃はまだ、
気にせずに追求できたと思う。

 でも今は背中合わせに地球や宇宙がめちゃくちゃになる程の破壊力を伴った
高度に発達した「力」がこれらの「追求」の結果生まれてしまうようになった。

 「ある能力」はそれを持つ人間にとって、更に伸ばされることを望む方向にひっぱられると思う。
 科学やビジネスは発達した結果時には、地球に破壊的な悪影響を及ぼすリスクが生まれてくる。

 無害に思えるアートだって、レニの映像の素晴らしさがナチスに悪用されることになった。
 何をしている人でも、自分のしていることの影響力を大なり小なり考えてしなければならない時代が
きてから久しい。

 これはBの軍略家になりたい「G.Iジェーン」を観ても同様に感じた問題なのだが、
「戦争」という非常事態の中に、
そこでしか発揮できないような、こういう「ただ極限まで伸ばされることを望む能力」が沢山控えていることも
無視できない小さな要因のような気がする。

 よく言われるのは、戦争は軍需産業にとっては莫大な利益になるということ。
「大量の消費、軍需産業に転がり込む途方もないお金」というビジネスが「戦争」だと。
 これが「戦争」が起きる理由の大きな一つだという。
 又出番を待っていた沢山の種類の「極限まで伸ばされることを望み、
常にトレーニングを積まれ続けているいろいろな能力」が集まってくるのも「戦争」。
 待機のエネルギー。

 又それ以外にも特殊な科学兵器の実験、様々な心理学等々普通の状況では実地に行えないことが
戦争では許されてしまう、ということもある。

 別に戦争でなくても環境破壊等の沢山の悪い影響を与えることは多いと思う。
 先の子供同士の殺人事件をみると、ただの空想で書いた小説が殺人事件のテキストブックにされたり
してしまう。(この加害者の児童がどんな事情で、ことに及んだのかは分からない。しかし一般に
昔から小説や映画はそういうきっかけに上げられている)
 
 これらは妙なことだが創り手が直接悪い訳でないし、悪事を犯すひとは何でも口実にするのだと思う。
 しかしそうは言っても、人間の心がこれ程荒んでしまっていると創り手は神経質なまでに
創ったものの与える影響を考えないとならなくなってしまう。

 ビジネスも科学等の全ての学問も、アートも何でも。

 何とか社会に悪影響を与えないように、良い影響を与えるような方向でのみ
人は「自分の能力を伸ばす喜び、快感」を楽しむように気をつけなければ
ならないのだと思った。たまたま自分の選んだことが、他者に悪しき影響のない運のいい人以外に
とっては深刻な問題だから。

 戦争のことだけでなくすべてにおいて、何かこういうのを別のエネルギー別の何かの用途に
転換できるとなぁ、と。

 まあ私程度の人間のすることは、何かがんばってみるにしてもしないにしても
大してどうっていうこともない分、悪影響もあまりないと思う。
 でもそういう問題でなく、息苦しくならない程度に良い方向へ考えが向かえるように
自分の生活を見直していこう、何て思ったのでした。(はは)

何となく当たり前と言えば当たり前の話ですが、
妙にこの映画で考えさせられたことでした。


D 「追悼レスリー・チャン」

 2003年4月映画俳優のレスリー・チャンが亡くなりました。
 代表作「さらば、わが愛 −覇王別姫−」や「ブエノスアイレス」等の素晴らしい演技力と
美しいお姿が消えたことを、沢山のファンが嘆きました。
私(編集A)は大ファンなのでとても悲しかったのですが、自殺だったので(バカヤロー)複雑な心境でした。
原因は「ホモの三角関係の清算」と騒がれましたが、実の所はうつ病らしいです。
日本では田宮二郎や伊丹十三氏が犠牲に。

レスリーは、役者として一つ大きなハンディを背負っていたように思います。
そしてそれをだんだん克服しつつあったのに....。(くすん)

 ハンディは彼の出演映画を観ていけば、大体わかると思います。
 日本の「雪月童話」という映画に彼が主演した時も。相手役ヒロインは映画初出演の常盤貴子。
 私は常盤に大いにシットしつつも、この映画のポスターの常盤と同じ色のブラウスで、
映画館に乗り込みましたね。"レスリーのロマンス映画"に一人でどっぷり浸ろうと。

...でも30分経っても今イチのめり込めない。
それは私の外見が常盤に似てないからでなく(?)、理由は大根だから。
しかもそれは映画初デビューの常盤(ニクい)のせいでない。彼女はかなり健闘していました。
 ダメなのはカンヌ映画祭等で世界の絶賛を得てきたレスリーの方。
「さらば、わが愛」では故・淀川長治氏に「私はこの映画に黄金の花輪を捧げたい」と言わしめた、
レスリー・チャンの方。
 やはりヘテロでないと男女の恋愛を演ずるのはかなりのハンディなのか?
(常盤さんが悪いのでなく、ウー・チェンリンの時も。まあ中性的な感じの相手だとかなり良いカンジ)

 同性愛傾向の強い彼は、相手役が女性の場合、今ひとつ演技がパッとしない。
と言っても演技派の彼はそれでも十分賞を沢山取っているのですが、
ホモの男性相手の役の時が素晴らし過ぎるので印象が・・・。
ホモの役者の辛さは、昔「チンパンジーに恋した人間の女性」を演じた
シャーロット・ランプリングの辛さに少し近いものだったのでしょうか。

(でも近年どんどん良くなってきていて、
努力家のレスリーはいずれこの壁をクリアすると思ったのに。(くすん)

 ちなみに近年特に高校生等の女の子の間で「ヤオイもの」というか、
少年愛・ホモ小説等が大流行していますね。根は宝塚の延長なのかもしれないけど、
オバさんの私は好きでないですね。
 だって「ホモは結婚してくれない」。(え?ホモ増えるって?)
あ、偽装結婚は犯罪的領域だからここでは除外。

 まあ人を愛するのに男女の性別は関係ないので別に偏見はないです。
だから私はホモの男性と女性は良い友情が結べると思っています。
 でも「同じお茶を飲むなら、ホモでない男と飲みたい」。
だって「ホモはおごってくれない」かもしれないし。(え?ホモ増えるって?)

......と、"負け犬"(売れ残り)のあさましい冗談はさておき「追悼・レスリー・チャン」の最後に
私の好きな、演技の背後に見えたレスリーの一面のことを書きます。個人的な感想にすぎないですが。

 出演作で個人的にダントツ好みなのは「さらば、わが愛−覇王別姫−」ですが、
これは映画「ブエノスアイレス」でのこと。
 彼が演じた役は「美貌でロクでなしの、ホモの男たらし」でした。でもあれを演じている彼は素晴らしかった。
 それは相手役のトニー・レオンに対してでした。

 映画「ブエノスアイレス」はロクでなしのレスリーと、
彼に純愛を捧げる気真面目で不器用なトニー・レオンの「青春物語」。

 撮影のクリストファー・ドイルによると、この映画でウォン・カーウァィ監督はトニー・レオンを絶賛し、
レスリーをボロくそに言っていたそうです。
理由は監督がレスリーと結んだ契約期間内に撮影が終わらず、延長を断られたから。
 スケジュールびっしりのレスリーが、もし他の仕事をキャンセルすると莫大な違約金を取られ、
信用もなくすからだと思う。でも監督はそのことを許そうとしなかったよう。
 彼程有名な監督に嫌われると、レスリーの評判も悪くなっちゃう。

 しかし私はあの映画はレスリーがあそこで帰って良かったような気がしました。
 そしてレスリーもそう思っていたかもしれないと。

 撮影に入る前、ホモでないトニー・レオンは「ホモが怖くて」ホモの役が嫌だったそう。
それまで演技力を高く評価されていた彼でも「ホモが理解できないから、
どう演じていいかわからない」状態だったそう。

 確かに映画の最初のうちトニーは目も当てられなかった。
演技に自信がないのか力が入りすぎて全然台無しというカンジ。
そしてそれを変えていったのがレスリーのような気がしました。
 
 よく社交ダンス等でペアの一方が調子が悪いとき、
もう一方のリードがすごく上手ければ何とかなる、と聞きます。
あれが「演技」にもあることを、この映画でレスリーに見せてもらった気がします。
 
 ガチガチのトニー・レオンを、レスリーがホモとしてでなく、役者として魅了するのに時間はかからなかったように思う。それからトニーに踏み込んでカバーしながら、引っ張るような演技の素敵さ。
誰でも大なり小なり「仕事で惚れる」という経験があると思います。
恋愛とか性別に関係なく、役者として人間としてレスリーに。

 さて、この映画の撮影でレスリーが帰ってしまった所で、物語はトニーが残され、
ラストに向かいます。出だしは目も当てられなかったトニーが
リラックスしていい味を出すようになったそのノリの絶頂の頃に、レスリーは契約切れて消えてしまう。
 "この映画に限って最初大根だった"トニーを引っ張るだけ引っ張ってレスリーは消えてくれたのだと思う。
 彼が丁度いい所でトニーを「捨ててやった」ような気さえする。

 レスリーに捨てられたトニーは、映画のストーリーと現実の状況がダブって、
ここからのトニーの「捨てられたホモの男」の迫真の演技は最高に高く評価され、
のちの彼の輝かしい活躍につながっていった気がします。

 レスリーのやさしさは同性愛のせいかな?と少し思ったのですが、
後にかれが映画監督業も始めたので違うと思いました。
意識が高まり自分以外の仕事にも愛情を持っていたせいだと。

さようなら、レスリー・チャン(くすん)。
私は自殺を全然神聖視しないので、とてもがっかりしただけです。
うつ病の怖さもまたひとしお。
 でも映画のいい所は、いつでもスクリーンの中で彼に会えるということではないでしょうか。

E映画「モンスター」他からの頂きもの「不幸な過去を乗り越えるためのポイント」

(これはアカデミー賞をもらったりして、評判の悪い映画ではありませんが
主人公が実在の人物で、彼女は評判の悪い凶悪犯でした)

話題の映画「モンスター」を観て、今まで見聞きした他のいろいろな方々のケースも含めて
「不幸な過去を乗り越えるための」注意ポイントというものが、あるような気がしましたので
お粗末ながらまとめてみました。
(主に「不幸な生い立ち」の場合の話です)

★ここに出てくるケースの人は、めったにない本当に悲惨な経験をした人ばかりです。
しかし「大は小をかねる」といいます。
大なり小なり誰にでも何かしら「嫌な出来事の経験」はあると思います。
友人・知人たちにもあるし、私にもある。

だからこういう「ビック」なケースを考えることで、
「自分の小さな不幸」を乗り越える、ポイントを学びたい。
そういう気持ちでも、私は世の中のいろいろな人の人生を読んだり、観たり、聞いたりします。(すみません)

ちなみに、まず映画「モンスター」のあらすじと説明です。
この映画はアメリカで実在の連続殺人鬼の娼婦の話です。(以下はどこの雑誌にも出てくるあらすじ)
主人公は不幸な生い立ち、娼婦になるしかなくて、苦労し続けて自殺を考えていたら、
レズの少女に出会って愛に目覚める。

しかしある日当たった客が、異常人格者でセロンに乱暴して、しばって、ガソリンかけて
燃やそうとしたのを寸前で逃げ出し相手を殺して助かる。
(これだと正当防衛だけどついでに、車とお金を盗んで死体を隠したのが悪かった)

それからこの少女と二人で暮らすために、
次々客を殺しては車とお金を奪って各地を転々。
そして捕まって、死刑に。

主役の絶世の美女シャーリーズ・セロンが体重増やして
特殊メイクで美人でない太り気味の中年後半の女性を演じているので、すごい話題。

 セロンのアカデミー主演女優賞は文句なしだと思うが、あの人地顔があれだったら主役クラスの
女優にはなれないと思う。美人の超演技だから受賞なのかも。
(必ずしも「整った美形」である必要はないですが、舞台系アーティストの外見の水準のハードルはキツいですね。特に演劇とか舞踊)

★正直言って、途中で映画館出たくなりましたね。悲惨だから。
同性愛でもサスペンス好きでもない私には、ツラかった。

でもセロンもクリスティーナ・リッチも最高の演技でした。

あちこちの映画評にも出てきますが、
セロンがすごかったのは、彼女の生い立ちとダブった部分があるからだと思う。
彼女は父親が暴力ふるう男で、少女の頃彼女を殺そうとした父親を、母親が撃ち殺して助けてくれた。
それから彼女はハリウットに渡りスーパーモデルから女優に。

セロンの良さであり、もしかして障害になるのも虐待の父親を殺してまで、
母親が彼女を守ってくれたことだと思いました。
障害かどうか分からないし、逆よりマシだし、プラスに変換されているかもしれませんが
生い立ち不幸な大スターに多い、愛情深いステージママとの癒着が多分精神的に大変かもとは思います。

そう言えば、昔観た似た映画「バタフライキス」よりはず〜っと後味はマシでした。
(主題歌は最高でしたが、このイギリス映画は、もっと感傷的で暗い)


★この映画を観て、前から思っていたことを再認識したように思います。
ディブ・ペルサーという、全米児童虐待ワースト3に入っていた虐待児の本(「ITと呼ばれた子」シリーズ)
や他の生い立ちの不幸な人の伝記を読み比べて思ったことです。

まず、ディブ・ぺルサーは虐待児ながら全身全霊で努力し、決して大人になってからも他者を傷つけないように努力し、
素晴らしい愛情関係を築く努力をし続けて、妻を愛し、子供を愛し、
虐待児の救済ボランティアに身を捧げている人です。(私が最高に尊敬する人)

不幸な過去を乗り越える、強い意志力。

ディブの本を読んでも、他の人の伝記や知人たちにおいて
この「生い立ち不幸」だった人に大なり小なり共通するポイントがあると思いました。

一般に不幸な生い立ちの人は、長じて自分がされたことと同じ苦しみを他者に与える人間になる、
と言われています。(例えば何らかの虐待を受けて育ったものは、自分の子供に同じことをするとか)

しかしこの不幸な生い立ちを乗り越えて、素晴らしい人間関係を築いている人もいます。
その違いはどこにあるのでしょうか?

大なり小なり生い立ち不幸だった人って、共通の弱点があり、それを理性的に自覚して乗り越えようと
しているような気がしました。ディブ・ぺルサーがどれほど強い人間だったことか。

生い立ちの不幸、心の傷(福祉関係の言葉で言うとトラウマ)は
持病を持つ人と同じで、ちゃんと気をつけていれば何ともなく普通に
生活できる可能性もあるのかもしれないと教えられます。

★ただそもそも「不幸に育つとひどい人間になりやすい」というのも一般俗説だし、
逆に「幸せに育ちすぎて人の痛みが分からない人」とか「幸せに育った人が、少しだけ傷を負うと一番やな人間になる」
とか別に根拠のないこの種類の一般論がそれぞれ用意されているので、結局は個人差なのだと思いました。

だから以下も必ずということは全然ないし、個人差が大きいしただの俗説に過ぎません。(すみません)

@同性愛になりやすい。

でもこれは本物のゲイと異なるように思います。ゲイの人は多分自然なことだと思います。その人の自由だし。
正直言って私はゲイでないので、分からない。
 ただ、何かとても辛いこと、不幸なことがあるとき人間はとても傷を負って弱っていると思います。
 
そういうときに、「対異性・異なる性」との関係は
「そもそもが男女の違いという、社会的にもいろいろな違いや軋轢・問題を含んでいる」ものなので、

それより「互いに理解しあえる同性」との付き合いの方が楽に共感や癒しをより多く得られるのかもしれない。
 また心身の相性がたまたま異性より合う人もいるのかもしれないし、又そういうことをきっかけに本当の愛情関係に変わり真性のゲイになる場合もあると思います。
しかし、一過性の「遊び・傷のなめあい」になると、相手をしてくれた人が本当のゲイで、真剣であった場合、相手を傷つける迷惑になることになると思います。(お互い割り切ってると別ですが)

 私は同性愛でないのでよく分かりませんが、
相手に迷惑をかけないのであれば、短期間であろうと長期間であろうと互いに癒されあう素晴らしい関係を築くことだって可能なので
悪いことでも何でもないと思います。

A受けた何らかの暴力が、外への攻撃衝動になりやすいの。
でもやられたこと、別の人に返すのが一番不幸になる悪循環の根源ですよね。これでは「世界は変わらない」
ぺルサーをはじめ、不幸な生い立ちを克服してまともに生活している人について気づくことは、
過去を清算して捨てることと、もうひとつは

この攻撃衝動を別のことに向けるということ。
何か趣味でも仕事でもいいから、何か別のことをしている。
「攻撃衝動」ってそれ自体はただのエネルギーだから残酷なことしなければカマワナイものなのかも
しれません。
フロイトが「性衝動・性欲」も同様に言っているけど似ているかもしれませんね。

ただ良い目的で使用するにしても「攻撃衝動」のままだと、最高のエネルギーには
ならないと思うので、多分そういう方はそれを別の良いエネルギーに変換しているのだと
思います。(一種の偉業だと思います)

B人間嫌いになりやすい。嫌な出来事、傷つくこと、裏切られることが続くと
普通人間が好きでなくなりますね。一人でいる方がマシと思う。

これに似たのって昔のポップスの大スターのプリンスの歌に似てる。
全部は知らないけど「リトル・レット・コルベット」という曲だった気がする。
それは、昔苦労して貧乏して、大成功したら女が群がってきて、そのせいで女嫌いになって
「赤のコルベットっていう高級車に乗っている方が、女と付き合うよりずっとマシ」とかゆっている
歌詞だったように思います。

私はビンボーなので、この歌の主人公の気持ちは分からないのでうらやましい話ですが、
これも「一種の負け犬」のような気がします。
早く立ち直って、良い人間関係を築けるようになれたらいいとは思いますが、
「車のほうが好き」なのは個人の自由なのでこれはこれでいいのでしょうね。

ただ「立ち直った虐待児」はプリンスの歌のような「苦労して大成功の人」とは又違う人種です。
しかし共通する点「生い立ち不幸だった人の人間嫌い」というのも、一過性の傷を負った状態なので
何とか自分を癒して、立ち直っていければ最高なのだと思います。

 まああまりヒドイと、なかなか難しいと思いますし、ディブ・ペルサーのように強い人間は
めったにいないので、ただ無理して人と付き合う必要ないし、ただ一人とでも大事な人間関係を
努力して作れば幸いだと思います。
(あまり沢山の人間と付き合うのも大変なことだし、必ずしも必要なことではないし)

※後日訂正
ごめんなさい、聞き書きで確認しないせいで大失敗。
このプリンスの「リトル・レットコルベット」自体は、女嫌いの歌でないです。
ただ、この曲は私の知人の付き合っていた、大金持ちのアジア系のアメリカ人の
男性の話していたコトです。
成功して、超高級車を5台位所有するようになり、中でもお気に入りのコルベットに乗りながら
私の知人に、「女よりコルベットの方がマシ」という話をしてくれたそうです。
その話の印象が強くて、ついこの歌の本当の歌詞のことを忘れてしまいました。

Cしかし人間嫌いだった分、
人を愛したとき、愛し方を間違えてただ盲目的につくさずにいられなくなって、相手に付け込まれる。
愛される・愛することに飢えてた分、
ジゴロみたい性格の相手に、付け込まれて、手玉に取られやすい。

相手が普通の良心的な異性(同性の場合もあるかも)だとそう悪くはならないと思いますが、
いずれにしても過度になにかしすぎて良い関係になりにくくて、失敗する。

「無償の愛」は最高に素晴らしいものではありますが、「恋愛という特殊なフィールド」において
方法を間違うと、しくじりやすいのだと思います。
結婚するとか、していないとかに関わらず
自分と相手をダメにする場合もあれば、自分にも相手にとって良いものになる場合も両方あると思うから。

ただ大抵の人は何度か失敗して、良い方法を学べるので思うので仕方ないと思います。

例え幸せに育った者同士でも、「愛」はムズカシイ、一生の課題だと思うので。
互いに幸福になれる距離や方法なんて、ノーベル賞だと思いますね。(はは)

★映画「モンスター」はこういうことと関係あったような気がします。
なお、そのほかに「有名な犯罪大事件」を犯す犯人の中には「有名になりたい」という動機も
あると言われていますので、以上の4点以外にも多くの問題を含んでいるのでしょう。

この@〜Cに自分で気をつけていると、
何とか器用にやれないにしても、まっとうに前向きに生きようと出来るカンジがします。

生い立ちの不幸克服した人も結構いるから、
その人たちや周りや自分の経験から学んだことでした。
(一生のすべてが不幸な人も、又幸福な人もいないので、誰にでもありうることであると思います)

★そして「生い立ちの不幸」のほかにも不幸な人一杯いますし、
一見幸せなことばかりの人だけど、精神的にハードだったりする場合もあるし
自分だけが不幸なわけでないし、上を見ても下を見てもキリがないですよね。

ただ比べるものでないから、大きいものでも小さいものでも落ち込んだら
正直に悲しい気持ちを愚痴をこぼして、元気になればいいと思いました。

やはり「映画は人生の学校だ」という意味のことを言う人が多いですが、
私も心底そう思います。
全部作るごとながら、たっぷりいろいろ考えさせてくれて、しかも娯楽一杯の映画に
私はいつも心から感謝しています。
(その分映画監督や、他スタッフの方は大変でしょうね)


F映画「ヴェロニカ・ゲリン」と高校生の「ある経済汚染」

(2003年アメリカ・ジョエル・シュマッカー監督)

麻薬撲滅キャンペーンのため、マフィアに暗殺された、
アイルランドの新聞記者・ヴェロニカ・ゲリンの映画です。
どんな映画かは、以下等を参考になさって下さい。
http://www.movies.co.jp/veronica/

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD4854/

悪評という程ではなかったですが、私の周りでも他でも
「今一つ、ピンと来なかった」というのが多かった映画です。

実は私もそう思いました。
でも、主演女優はケイト・ブランシェットだし、十分迫力ある、面白い映画には仕上がっていました。
劇中、効果的に流れる、アイルランド音楽も素晴らしかった。

この映画の「何がピンと来なかったか?」と言うと、「なぜヴェロニカ・ゲリンという女性記者は、
こういう身の危険の多い仕事に手を出したか?」という部分が
今一つ、見えにくかったということのようです。
私もそうだったし、けっこうそう思った人が多かったよう。

実は新聞記者は、大昔に私が憧れた職業でした。
(ちなみに私の憧れは「文化部」とか、そっち系コラムであって、
政治・社会・経済関係は真っ平ってゆうか..。はは)

採用試験に全然合格しそうになかったし、成績だけでなく、他にもいろいろ無理のある部分が
多いので、完全に諦めてしまったし、

年を取って自分のことを少し知るようになると、もう「なりたい」とさえ、思わなくなりましたね。
要らないものは欲しくなくなるのが、年取ると得るココロの恩恵なのかも。

で、私事はともかく
アイルランドの有力紙の新聞記者で、
母であり妻である女性が、身の危険にさられながらどうして残酷なマフィアを
相手にすることになったのでしょうか?

主演女優のケイト・ブランシェットは映画「エリザベス」のあの大女優ですね。
彼女の演じるベロニカ・ゲリンは、記者にしてはあまりに身のこなしが
洗練され過ぎていて「舞台アート系」以外の人種に見えなかったのが、欠点だったと思いますが、
十分素晴らしい演技で、この映画を引っ張っていったと思います。
観に行く価値はあった。

しかし彼女の演じたヴェロニカ・ゲリンは、「一流紙の、頭が良く、野心家でセクシーでタフな」
現代的なキャリアウーマン像に仕上がっていたような気がします。

でも彼女が実際相手にしていたのは、莫大な利益を賭けて動く
残虐非道なマフィアでありました。

もし彼女がこの映画のような功名心の強い雰囲気の女性だったら、
「こっち方面」には手を出さないような気がしたのです。この映画を最後まで観ても、
やはりピンと来なかった。

彼女は自分だけでなく、自分の家族も危険にさらし、再三の警告を無視して、ついに暗殺されてしまいます。

でも映画の最後の最後に、ケイト・ブランシェットでなく、本当の「ヴェロニカ・ゲリン」の写真が一枚出たのです。

ちょっと厚みと温かみのある、母性的な中年の女性に見えた。

当時のアイルランドでは、マフィアがはびこり
子供達までに麻薬汚染が広がっていて、それになすすべもない状況だったそう。

再三のマフィアの脅しにも関わらず、
ヴェロニカ・ゲリンは新聞で麻薬撲滅キャンペーンをはり、ついに暗殺されてしまいましたが、

彼女の死をマスコミ関係者はムダにせず、世論をかきたて
国をあげて、麻薬の取り締まりが行われ、アイルランドは救われたという話です。

この彼女の実物写真を見ていると、彼女は多分、
ただイヤだったのかもしれないと、思いました。
自分の子供のことだけでなく、国中の子供が麻薬で汚染されてしまうのが、耐えられなかったのだと。

映画でも性差別が出てきて、女性ながら英雄みたいに書かれていますが、
自分も子供がいる身で、子供の麻薬汚染が許せなくて、
損する方に行ってしまう、上手く生きられない不器用な女性だったのかもしれないと思いました。

あと男性より、扶養する義務のある家族がいない女性の方が
意外とヤバい仕事に手を出しやすいといかもしれない、と思いました。

まあ女性としてのハンディは一杯あると思いますが
この点は女性の方が強い部分はあるのかもしれないですね。

しかし、私は思ったのです。
よく言われることですが、環境問題・平和問題等の影で
莫大な利益がからむ大企業の圧力が強大で、犠牲になった人も多いらしいですね。
大統領まで暗殺してしまう。

でも殺されてしまうのは、間違っている!!
もう、そういうのは必要ない時代だと思います!!

これだけ環境が悪化しているのだから、もうそういうことを
いつまでもしていないで、
真実をちゃんとみんなが知って、考えていけるような世の中に
なってほしいですよね。

だって環境汚染等の犠牲になるのって、私たち民草なんだもん。

で、ヴェロニカ・ゲリンの「アイルランドの子供達への母なる心」と
それから、劇中のケイト・ブランシェットの「ヴォーグ誌のモデル」のような服装と身のこなしを見て、
ふ、と思ったことがあったのでした。

「ヴォーグ誌」と言えば、世界有数の高級ファッション誌。

最近高校生が海外の高級ブランドのバックを持っていたりする
のを見て、おばさん根性で思ってしまったことがあります。

私達が高校生の頃は、あまりお洒落な高校生というのはいなくて、
アイビールック系の「MCシスター」という高校生向けのファッション雑誌がありました。
それは私から見ると、「お金持ちの高校生」のファッション
でしたが、それでも今の時代の海外ブランドファッションから見ると、服の値段も知れていました。

そしてこの頃、高校生のアルバイトは禁止されている学校が多く、
新聞配達くらいしかありませんでした。

それから私が社会に出て、年を取った頃、
「オリーブ」という可愛いファッション誌が高校生で大流行していましたね。
それを読むと、私達の頃とは大違いのお洒落でかわいい高校生が沢山載っていました。
当然、お金もかかっています。

そしてこの頃、ファストフードの店でアルバイトする高校生が
ものすごく多くなりました。

それから今。
この前20歳前の購読者の多い雑誌を
読むと、グッチとかそういう海外のお金のかかる高級ブランドを身に着けた、
ティーンエイジの「小娘」が一杯写っていたのでした。

ピチピチの肌に、学生のうちからこってり厚化粧をして、
昔は金持ちのオバさんたちしか着れなかった、高級ブランド品が...。

確かに美人で若くて、可愛いけど....、
そんな格好しなくても、若いんだから、もっと金使わなくても十分素敵になれるのでは?

(私は今では身なりにかまわない、ビンボーなおばさんですが、
若い頃は、少しはお洒落に気をつかいました。
でも、それでもそんなにお金はかけなかった!!!)

そして今、援助交際等の売春をアルバイトにする高校生が
とても増えているといいますね。

これ程、高校生の「欲しいもの」の値段がつり上がったら、
もう「新聞配達」をした位では、追いつきませんね。

「消費の拡大」は不況の経済を上向ける、特効薬なのでしょうか?
それとも対症療法に過ぎないのでしょうか?

物を沢山買う人が増えれば、景気は上向くのでしょうか?

高校生にまで、海外ブランド物を売りつけて、高校時代の勉強やスポーツや、芸事や
人間を知り、世界を知る基礎を作る大事な時間を、アルバイトに費やさせたり、

誰かと「純愛できる貴重な青春」に、オヤジと援助交際させなければならないのでしょうか?

高い化粧・服装等の流行は、それを手に入れるために
確実に高校生たちの人生を蝕んでいきますよね。

麻薬とかそういう、見るからに恐ろしいものだけでなく
こういうことも、小さいけど立派な「経済汚染ではないか?」と映画を観て思ってしまいました。

もっと高校生には、お金のかからないものを
流行させてほしいと思います。
メジャーな雑誌が結局、高校生たちの文化をリードしていくと思うので、

少し学生を卒業するまでは、彼らが心安らかに「経済汚染」されないで、お洒落や恋愛を楽しみ、
何か別の「物を買う」以外のことに興味を向ける
ようにしてほしいと思いました。

「高校生のくせに!!」は若い頃は腹の立つ言葉でしたが、やはりそれはあるのだと、思います。

子供達が不満を抱かず、我慢してると思わなくて済むように
「お金のかからない、それでいて素敵な文化」を
メジャーな雑誌の人たちは作ってほしいと思います。

私も「MCシスター」「anan」「nonon」
「Lee」「TODAY」「クロワッサン」
「本の雑誌」「ぱふ」等
雑誌に影響されて、雑誌文化を楽しんで生きてきました。

(載っているものは、高くて買えなかったけど、コピー商品とか、一個だけとかは買ったし、
何より載ってるものを買うより、
書いてあるエッセンスを楽しく自分の生活に取り入れることができました)

高校生に、海外ブランドものを買わなくてもすむような
そういう文化にしてほしい、とこの映画を観て
何となく思ったのでした。

でも長引く不況下、雑誌はスポンサーの意向が強いと思うので、
そういうのは、無理なのかもしれないですね。

G 映画「紅夢」−−− どんな「女」なら上手くいくのか?

(映画「紅夢」(香港・中国製作)
 1991年監督 チャン・イーモウ 主演 コン・リー)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD16451/index.html

映画「紅夢」は評価の高い名作です。ただ題材が、女性に評判の悪い、
昔の中国を描いています。
昔の中国の大富豪の第4夫人として嫁いできたヒロインと、他の女たちの物語。

この映画の中で、一ヶ所に囲われて暮らさなければならない、女達は互いに争い、
足を引っ張り合い、憎み合います。
主人の寵愛がなければ、又世継ぎを産まなければ、待遇もぜんぜん違ういう生活。
主人の訪れがあった夜だけ、その女の部屋の扉の前に、赤い提灯がともされます。

泥のような暮らしに疲れ果てて、醒めていく女たちは互いに友情すら覚えたりする
のですが、それさえも.....。

ハーレムものの映画は世界中で作られていますが、この映画が特に名作なのは、
そういう女性達の内面の、本当の辛さを、じっくり描いているからだと思いました。

近年、世界一うらやまれるのは中国の女性だ、という声が聞かれるようになっています。
中国人男性と結婚して、中国に住んでいるマンガ家のエッセイには、
北京などの大都市の共働き家庭では、家事と育児は夫が受け持ち、
妻は仕事とお洒落だけしていればいいようなものだ、と書いてありました。

私の身近の、中国留学経験がある女性が何人かいますが、
やはり中国女性の立場をうらやましがっています。
又中国から日本に仕事で滞在していた中国人女性は日本の社会をみて、
「日本の女性はかわいそう。どうしてこうなんですか?」と言っていました。

この映画を観たとき、一番最初に思い出したのはそういう人達の言葉でした。
女性の社会進出がいちじるしく、女性の強い国は、
過去に「女性が辛い国」だったことがあると、言う説があります。
中国女性ほど家事分担で楽してないですが、アメリカは女性の社会進出が著しく、
女性も強いです。アメリカ女性がそうなのは、他国の人と違って、
女性がしんどい国だったからだと、よく言われていました。

レディ・ファーストで、一見紳士の国、女性にいいように見えても、
家計を女性に預けず、夫が管理し、妻には食費等の必要な費用を手渡すだけという
状態。

だから、アメリカのウーマンリブ運動は、死に物狂いの迫力だったと言われ、
サイフを預かり、カカア天下に納まる日本等の他国とは
比べるものではないのだ、と。

中国が家庭の家事分担でこのような状態(男性にとって不利、不平等)なのは、
理由は分かりませんが、中国の政治体制(私は政治の話は苦手だし、
内容もよく分からないけど)等も関係あると思いますが、女性の社会進出が著しく、
権利も強いのは、過去の中国が女性にとって過酷な国だったからなのか?と、
この映画を見て又思い知った気がしました。

「紅夢」だけでなく、映画「ジョイラック・クラブ」(原作の小説も素晴しい)にも、
少し描かれていますが、昔の中国は、女性に生まれるという、
それだけでもかなり暗い部分のある国だったように思います。

過去の歴史の中で、財力のある男性が、沢山の女性を囲って重婚状態、
ハーレムを作るというのは、中国だけでなく、世界中のどこの国でも見られますね。
男性の欲望を、財力と権力で形にした非人道的な状態ですが、

貧しい国の女性達を、財力のある男性が、重婚のような形で何人も一人で養うことで、
経済的な救済にもなったという、人道的な意味もあると言われていますね。

中近東のハーレム、日本の大奥等どこの国でもそういうものを
題材にした映画がありますが、面白可笑しく「局争い」を描いている娯楽作品が
少なくありません。

私も中学の頃、テレビで放映していた「大奥」を観ては、
クラスメイト達と互いに「松島の局」「春日の局」と呼び合い、
ごっこを楽しんでいたものでした。
そういうのは、観客を動員するために仕方ないと思いますが、

大人の女性からみると「チャボのケンカが好きな人たち」
「大奥女相撲の好きなタイプの男性」のおなぐさみのようで、
楽しみながらも腹立つし、
又男性にとってのサラリーマンの「出世もの」物語映画みたいな、
お勉強をしてしまったりして、
それも又何か.....。

最高の理想は、男女差別、人種差別も一切なく、争いも一切ない、
平和で美しい地球、人類はもう生活のために働く必要すらなくて、
みな生きがいのために好きな仕事をするというような社会でしょうか?
そうだと思います。そうなれたら、きっと素晴らしい人類の大変革が起きるかも?

でもそれに近づくには、まだまだ世界はあまりに貧しいのでしょうか?
夫婦の形は、多少の違いはあっても、世界中のどこの国でも似たような感じが
ありますね。

男性は社会でメインとなって働き、女性は家事をメインとなって行い、
子供を生み育てる。女性が働くのは、貧しい家では、家計費の足し、豊かな家では、
生きがいのため、というような状態。

世界中の宗教を見渡しても、男女観のほとんどは上記に準じたものになっていると
思います。

これは、子供を産み育て、一人前にして又次の世代へいくために作られたような、
形だと思います。

大黒柱の男性が、主に収入を得ることに力を得て、妊娠出産する女性が主に家事をして、
子供を育てていく。
社会サイドとしても、妻子を養う、背水の陣の男性社員、
一家の大黒柱の必死の働きを期待するし、

結婚すれば、働いても働かなくてもいいというような女性より、
社員として価値があるとみなされてきました。

家事と仕事、両方する人もいますが、やはりかなりの負担で寿命がちぢむ程、
心身共に大変なことですね。

近代現代、奴隷制度、階級制度のようなものがなくなり、産業文化等、
社会は急速に発達をとげました。

一部の人間だけが、学び、自由で豊かで、あとは奴隷状態というのは、
地球にとって損失ですね。
すべての人間が、自由で学び、それぞれの個性に応じて、自分のために、
家族のために、のびのび考え、働く。

この二つの社会では、どっちが勢いがあるか、発達するかははっきりしていると
思います。
どんなに脅されても、又仮に好きな仕事だったとしても、奴隷は頭の働きも、
仕事ぶりも知れています。奴隷本人がどんなにがんばっても、
人間にはココロがあるので、「やる気」の魔法、奇跡は起きにくいですよね。
奴隷が考えるのは、「逃げる」ことと「復讐」だけだと思います。
それでなければ、無気力なロボット状態。

社会におけるお金や権利の配分だけでなく、一般に重労働や人のいやがる仕事と
言われるものがあります。それらの仕事は、もし見合う高い、
それなりに高い報酬があれば、現代みたいに、その仕事が好きな人がすれば、
別にひどいこと、ではないですね。

どんな仕事でも、面白い所、素晴らしい所と、いやな所大変な所があるし、
一般に人気のある仕事でも、それが嫌いな人もいますし。
何らかの意味で重労働なら、それなりの高い報酬があれば、問題はないです。
福利厚生はともかく、ガデン系やお水系は給料が高いというように。

でも昔は、一般に人の嫌がる仕事、大変な仕事を、
一部の人に専門にさせて奴隷状態のようにしてしまい、
貴族のような一部の人達だけが、楽をしたという歴史が、
どこの国にも残っています。
カースト制度とか、士農工商とか、貴族制度とか、
世界中の国が持っている歴史です。

どこの国でも、人間の考えつくことは、みんな同じなのでしょうね。
そして、そこを脱却して、進化していく素晴らしいプロセスも、
また人間の考えつく同じ素晴らしさなのだと思います。
遅い早いの違いは、各国ごとに違っても。

.....という訳で、リンカーン大統領は、奴隷を解放して、
「世界一のアメリカ」の礎を作ったのだと思います。

このことは、女性の人権を差別していた頃の社会にも言えると思います。
よく分からないけど、確かに男女は違うと思います。
男性にも女性にも欠点も長所がある。

でも男女がそれぞれ自由に何かを学んで考え、試行錯誤していくことは、
社会の発達にとてもプラスしたと思います。
女性の良さを仕事においてもすべて否定して、出さなかったら、
本当にもったいないことだと思います。

もしも私利私欲に走らずに、
「この人が上に立てば、会社も伸びるし、社員も幸せ」というような人がいたら、
その人が男でも女でも何人であっても、出世してほしいもの。

ただ、現代において男女の関係は、たくさんのひずみが出てきて、
問題が吹き出ていますよね。
こういうのは、調整されるために必要な時期なのだと思うのですが、
実際にそういう時代に生まれた人達にとっては、深刻な問題だと思います。

男女はどんな形であるのが、一番社会がうまくいくのか?
最後は社会が進化し、発達し、理想通りの、すべてが平等で、豊かで保障された、
美しい地球になるのが目的だと思いますが、残念だけど今はそうじゃないみたい。

男性がしんどいのは、男性は生涯に渡って働いて当然で、
常に女の上をいかねばならないという、社会通念のプレッシャーがあるからだと
思います。
また妻子を養うという、くびき、責任が一生ついて回る。

あとは、家事は本人が拒否すれば(大抵の男性)、しないですむし、
子供の頃から家の仕事をさせられるのも、女の子に比べたら、
ずっと少ないし、社会に出てからも、ある程度出世も有利ですね。

女性が楽なのは、男性に勝たなくても、「負けて勝つ」というか、
「男性を立てる」とか誉められて、別に損しないから。
又経済力のある男性と結婚していれば、働いても働かなくてもいいという状態に
なれるから。
生きがいで働くか、家計の補助のために働くかという状態。

いずれ辞めるつもりで短期決戦で全力疾走すると、一生働くつもりので、
持久戦の走り方の男性より、一時的にいい結果が出る場合もありますし、
精神的には女性は自分をプレッシャーで苦しめることが少ないので、まだ楽です。

(最高クラスの仕事をしようと思わなければ、ノイローゼにもならずに、
別に地道に一生懸命働き、楽しく生活できますね)

でも家事労働は休みないし、ずーっと続けると息詰まるときもあるし、
報われることも、評価されることも少ないです。、
結婚したら家事は女性の責任だから、大変ですね。
女性のハンディは多いです。

現代は、古代の奴隷時代、封建時代でないのですから、自由の良さ、賢さも
大事だと思います。

男性でも、アート系等仕事が収入に結びつきにくい人や、
家事労働が好きで主夫が向いている人は、無理に外で働くより、
家の中で家事をしてもいいと思います。
家事したくない仕事好きな女性と、いい相性だと思いますが、

全然愛情ない打算だけだと、やはり結婚は持たないので、
運良くそういう相手同士で縁があって、気持ちがあったら、
幸せになれるのでしょうね。

専業主婦を夢見て、ずーっと結婚できないで仕方なく独身で働く女性も
いますように、養ってくれる女性がいないと、
そういう男性も最低限は働かないとならないけれど。

又逆に、女性でもすべてを承知の上で、それでもがんばりたいというなら、
私のように能がない分、上を目指さず、生涯中堅スタッフを目指す、
ある意味でズルイ、一生懸命働くというだけで、それ以上の出世の努力はしない
という女性像を壊して、
女性でも男性と変わりなく上を目指すという人だっていてもいいと思います。
それは又犠牲の多い、苦難の道のりだけれども。

理想は、男女完全平等です。職場でも家庭でも。ラブ&ピース。
でも、実際は妊娠出産子育てという問題があり、それを解決するために
作られた社会制度が現在の「結婚」という法律上の形だと思います。

子供がいないケースでも、それだけだと社会が崩壊しかねない、
男女の愛情の不確かさと、経済的法律的な不利益を是正するために、
今の結婚制度他、男女の法律がありますよね。

格差社会と言われ始めてから、久しいです。
経営者だけが儲けて、被雇用者の労働条件は低下する一方と言われています。
日本の経済力、国力は段々世界ランキングの上位から滑り落ちていく一方
というカンジで、だんだん暗い世相となっています。

何だか昔の貧富の差の大きい、後進国みたいになってきているのか?
その時だけ良ければ、未来の国力、展望のない国なのか?

国のことや、政治、経済のことは、私の手には全然余ります。情けないことですが、
そういうことを考えるのは、身近なことに影響が及んだときだけです。

今は、家庭の中が荒れてひどくなってきていますよね。。
昔は、戦争があっても不況があっても、家庭の中は、まあまあ良い状態だったように
思います。しかし、現代は人の心は荒んで、
家族で殺しあっているようなことまでも。
いろいろな形での「暴力」が家庭を荒らして、社会を荒ませていると思います。

夫婦間の暴力。DVは、増える一方のようです。
普通は、被害者が加害者から離れ、守られ、経済的に自立できるように社会が
全力で保護する必要があると思います。そういう女性は働き口を保障してほしい。

栄養失調なのか、不況、格差社会で男性の仕事が辛いものとなり、
そのストレスが女性に対する八つ当たり、暴力となって弱者の女性に及んでいるのか?

例外は大流行の「だめんずうぉーか〜」現象というのか、一般にエリート女性が、
DV男に貢ようなことにハマるという現象。
私は出世もできないし、国立大学も出てないし、ビンボーだし、
いろいろストレスもたまっているので、DV男に貢ぐという、
天使のような心持には全然なれないですが、

東大や一ツ橋大を出たような女性が、そういう男性にハマるのはなぜでしょうかね?
私には分からないけど、エリート女性たちは、
そのために男性に愛されなくなるのでは?という恐れがあるのでしょうか?

シンデレラコンプレックスの変形が、こういう形となって一時的に
現れているだけなのでしょうか?
う〜ん、私には分からない現象なのですが、
もし病的ならカウンセリングなどの心理療法を受けると、良くなるのでしょうか?

児童虐待は、不況長くなり、いろいろな形のプレッシャー、ストレスに
耐えられなくなった親から、子供が虐待を受けるというものなのでしょうか?

それとも、社会であまりに「勝ち負け」とか、誤った競争意識だけが高まって、
ついには、子供と競争というか、子供の未来に嫉妬するようなそんな状態
なのでしょうか?分からない。

また残酷さ、暴力が、前ほどタブーでなく、映画や本やゲームで身近に
仮想現実として転がっているので、それを現実に行うとき抵抗がなくなる
のでしょうか?

実の親の場合以外で、児童虐待も多いですよね。
離婚再婚がこういう状況をいくらでも、作り出す。

私は、子供を虐待した親の刑事罰として、
ノンバンク金融の取立て組織の協力を仰ぎ、養護施設を作り、
養育費を各虐待親に、マグロ船に乗ってもらってでも、払ってもらうようにすれば?
とか思うのですが、

実際防ぎようがないですよね。

とりあえず、世界的に必要だということで、発達心理学をというものの研究を、
急いで行ってほしいと思います。実の親にはかなわないながらも、
実の親以外の人が、どうやってそだてたら、
実の親でない子育てのハンディを乗り越えられるか?という研究。
どうすれば、ベストにカバーできるか。


一家の大黒柱の働き手が、正社員でフルタイム勤務できないために、
現在の格差社会が悪化しているといいます。

パートで働く、主婦を手軽に安く使えることが、大黒柱の働き手(主に男性)や、
独身の男女の正社員雇用の口を減らしているといいます。
パートだからといって、いい加減に働いているとは限らないですが、
必要度を考えると大黒柱の正社員雇用が減ると言うのは、深刻な問題を感じます。

実際問題、大黒柱の収入が減れば、主婦がパートに出なければ生活できないですから、
これはニワトリと卵どっちが先?という問題ですよね。

また、暴力が増え、社会が荒めば、弱者に置かれた女性や子供は
虐待から自分を守るために、働いて自立しなければなりません。死に物狂いで。

家庭環境がよく、今ほど社会が荒んでいなかった頃の、男女の形だけでは、
割り切れない世の中になってきていますよね。

「結婚」(又はそれに準じる、内縁関係の男女の愛情の形)って何なのでしょうか?

イスラエルは子供を育てるのに、各家庭でなくキブツという所で、集団で育てると
いいます。
私はそれ以上のことは知らないし、最近このスタイルのことはあまり聞かないし、
実際の親が家庭で育てるのには、かなわないと思うのですが、

実際の親の家庭がこれほど、荒んでいるのだったら、そしてまた離婚結婚が
当たり前のこととなってきているのなら(実際、離婚結婚はそれ自体は何も悪くない
と思います。

結婚がうまくいかないのは、当人同士が悪いとは限らないし、
仕方ないことだと思います。逆に無理にずーっと一緒にいると、
それはそれで子供に悪影響あると思います)、

親の結婚状況や、家庭の状況に子供が影響を受けないで、
育てられるような形を研究すべきなのかもしれないと思います。

完全に親から離すというより、集団で育てるベースに、
実の親も一部介入できるような形とか。

そしてそれがあると、結婚制度というものも、変わっていくと思います。

多分愛情なんて、大抵の場合いつかは醒めるものだから、
結婚離婚は当たり前の自然現象だと思います。
最後は、社会に経済問題がなければ、結婚という制度すらなくなるのかも?

でも、不自然とも言われる結婚という制度は、男女の恋愛感情が終わったとしても、
最高のパートナーシップ、助け合う、人類愛の至高の夫婦愛が育つといいますよね、
それは結婚制度がないと、なかなか生まれ難いものですよね。

恋愛という、それ自体はそんなに深くない、不確かなものに、
左右されてそれ以上男女が深まるということがない、
そういう社会になるのでしょうか?

経済的に行き渡らない世の中が続く限りは、結婚したら男性は女性を虐げない、
女性もある程度は目をつぶるという状態が必要なのでしょうか?
女性も男性も、何らかの形でヒドイ状況が続いて、
その反動でいろいろな問題が起きているのだから。

そして、結婚できない独身者(どうしてか結婚できない人っていうのもいますから)
が生活できる社会を保障しつつも、大黒柱の世帯主を優遇する、
労働条件も必要だと思います。

人間はどこまでお金を儲けたら、あとは不必要なのでしょうか?悪いことをして、
ボロ儲けして、あぶく銭をあまり良い目的で使っていない大金持ちも何となく
最近目立ちますよね(余計なお世話で恐縮ですが)。

何をしたにせよ、大金持ちになるのは、並大抵のことだったとは思いませんが、
必要以上に大富豪になる人と、必要以上に労働条件が悪い人を作ることが、
日本にとって良いことなのでしょうか?共産主義は、個人的に私は苦手ですし
、自由な国が好きなのですが、段々世の中が荒んで、
ただのエゴイズムと資本主義がごっちゃになっている気がしてきます。
(分からないのですが)

またいくら労働者の賃金を下げて儲けようという考えがあったとしても、
最低限度、独身の労働者が、一人暮らしできないような給与しか得られないのなら、
またそれも社会の崩壊になると思います。

結局、経済的な理由で実家を離れられなくなり、
精神的にも大人になれない子供が増えてくると思います。
介護のために、子供が家にいる方がいいのかもしれないですが、
結局そういう状態の子供たちが、親に優しい介護をするでしょうか?
パラサイト問題、子供が親を殺すような、またその逆のような事件が一杯あると、
私は疑問を持ってしまいます。

子育てが両親の男女関係、人心の荒廃に左右されない、新しい方法、
制度を考えつくことも必要だと思います。

そして、これらが社会制度として出来上がったとき、初めて男女とは何か、
どんな「女」なら上手くいくのか?なんて考えずにすむのかもしれないと思いました。

結果がどうなるのか予想がつきません。やはり古典的な男女関係がいいのかもしれないし、
全然新しいものが出来上がるのかもしれないです。

私にはわからない。どんな「女」なら上手くいくのか?何て下らないこと
本当は考えたくないし、自然のままでいたい。実際それぞれの人間が
自然の自分を押し殺していると社会もまた、荒廃してくると思うのですが、

でもやはり、今あえて、社会問題が一杯あるなら、どんな「女」なら上手くいくのか?
誰か考えてほしいと思いました。(はは、自分で思いつかないから)
どんな「男」なら上手くいくのか?

何を選ぶにしても、個人によって選択肢がないなら、
つまり奴隷制度や何らかの独裁政治体制みたいに強制力がありすぎると、
誰か特定な部分の利益で世の中は捻じ曲がって、回復ができないので、
自由な体制の強さと柔軟さを、もって、誰か考えてほしいと思います。
どんな「女」なら上手くいくのか?を、考えなくてもすむ世の中になるように。

H「何の主義なら上手くいくのか?」  ((News letter vol.13 2009年2月22日発行)
 
   −映画「チェ 28歳の革命」 「チェ 39歳別れの手紙」を観て−

   ※この映画は、大変評価が高いですし、「チェ・ゲバラ」は、
世界で最も名声のある偉人の一人だと思います。ただ、とても評判の悪い圧政国家が
幾つか出てくるので、「評判の悪い映画特集」の中に入れました。

 チェ・ゲバラの二部作を観て、私はとても恥じ入りました。
このように多くの人々の幸せを願い、あらゆることを犠牲にして、
命をかけた人がいるというのに....。

 で、小さな私利私欲で生きている私という情けない人間のことはさておき、
この二部作の映画で思ったことを書きます。

 悲しいことですが、この映画のキューバの危機的状況からくる悪政下の人々の心情は、
現在の世界的不況のアメリカ、日本等の人間にとって、
まったく無縁のものでなくなってきていると思います。
 日本でも昨年は、作家・小林多喜二の「蟹工船」がブームとなりました。

 経済が破たんしたとき、国民が「苦しみから解放してくれる救世主」を求めるのは
自然なことだと思います。

 でも人類の歴史は、「その時」必ずしも良いものが来るとは限らないことを、
教えてくれています。

 キューバにはカストロやゲバラという素晴らしい、志の高い、潔癖なリーダーが
現れましたが、昔のドイツには、ファシストのヒトラーが現われましたね。

 どちらも素晴らしい理想をかかげて現れて、超強制力のある最高権力を手にいれ、
国民の救世主に。で、怖いのはその後ですね。
 その見分けは政権を取るまでつきにくいし、どっちが来るかは運だ、
と言いたい位微妙な問題ですよね。

 映画のパンフレットによると、カストロとゲバラの仲間は、キューバの政権を
取ったあと、キューバの経済問題のために、キューバ社会主義を共産主義に変えて、
援助を求めてソビエトの傘下に入りました。しかしソビエトがのちに破たんし、
キューバは今も経済問題を抱えたまま、貧しい状態です。
 
ただこれは経済問題というだけで、最初にカストロやゲバラが志した、
クリーンな社会システムはそのまま続いている状態のようです。

 ソビエトの傘下に入ったキューバの一時的な安定の後、ゲバラはカストロと別れ、
ボリビアの解放を次に目指しました。そしてやがて、キューバのために
ソビエトの言いなりのカストロに援助を切られ、、有名になり過ぎていたため
各国に警戒され過ぎて、また諸条件がかみ合わず、映画のラストのようなことに
なってしまったようです。

 この映画はゲリラ戦闘シーンが続くため、私にはしんどい映画でした。
「武力闘争」「戦争」の是非の判断はこの場合、私にとっては難し過ぎる問題です。

 ただこの映画を観て強く考えたことが「何の主義なら幸せなのか?」ということです。

 今、とりあえず二つの大きな主義が世界にあって、一つは共産主義、一つは資本主義。
どちらも破たんしているとは思いますが、ではどんな主義ならいいのでしょうか?

 まず共産主義。日本共産党は私のイメージでは、
医療福祉関係で良い活動をしているということ、野党の一つであるということ、
昔、作家の小林多喜二が、労働運動のせいで拷問されて獄中死した程、
国に弾圧されていたけれど、今は自由な世の中なので、共産党も堂々と
活動しているということ位です。

 しかし歴史の中で、共産主義国家はどういう国となっていったか?
 ソビエト、東欧、北朝鮮、みんな軍事政権であり、自由がなく、
一部の中枢の共産党員等のみが、貴族制のように栄誉栄華で、あとの多くの国民は
国の経済力の弱さから、貧しい生活を余儀なくされていて、それに批判めいた言動がちょっとでもあれば、
収容所送りとなってしまう。

 共産主義の理想は、資本主義が及びもつかない程、高く美しいと思います。
しかし実際、共産国はいずれ上記のようになってしまっています。
 
 その理由は、私は政治に詳しくないのであれですが、国が超強制力の元に、
国民の「私有財産の没収」を行い、それを国が国民全体に上手に分配する、
ということを前提に、社会が作られていることが、大きな原因の一つだと思います。

 国民の私有財産を没収し、共産党以外の政治主義を許さないことでしか、
共産主義政府は成り立たないので、超強権力をもった政権を樹立させるしかありません。
有無を言わせず没収し、分配するために。

 しかしそれでは、一旦そういう政府が出来てしまうと、
中央の「財を分配する係」の人たちが出来ごころを起こして、
汚職をしてもそれを国民が非難することすら許されないような状況です。

 実際、カストロやゲバラは志が高く、潔癖なリーダーでしたが、二代目、三代目、
その次の代までも、そうとは限りません。大抵の共産主義国家は、貴族制の方が
まだマシのような、ひどい国家となってしまっています。

 しかも共産主義の強権力を行使するために、
軍部を非常に強化しないとならない体制だから、事実上の軍事国家のようなものです。
ファシズムと大して変りないカンジ。
(そもそもナチスは、共産党にいろいろ学んだそうです)

 それでも国に財がたくさんあり、豊かであるならまだ国民全体に行き渡る分が
あるかもしれませんが、基本的に「働いても、大して働かなくても変わりなく、
自分で何か自由に生き生き活動するということが出来にくい」体制なので、
経済活動は活発にはならず、やがてジリ貧となり、

 そうなればますます中枢の共産党員、軍部の人たちが少ない財を一般国民の
取り分から搾取し、独占し、それに不満を持つ国民を容赦なく弾圧していくという形に
なりがちのようですね。そして、ソビエトのように国が破産するまで、
それを誰も止めることができない。

 そもそも経済的に豊かな国は、共産主義が国の体制になっていたりしていないような
気がしています。貧しくなって初めて生きる良さだと思います。

 で資本主義の破綻とは何なのか?資本主義はおろか私は政治のことも経済のことも
よく分らないので、あれですが、「がんばって働いて儲けよう」という
基本がある資本主義は、お世辞にも大して高い精神性、美しい理想があると思えません。

 共産主義に比べても、何に比べても。ただ、共産主義国より高く美しい部分は、
人間個人を尊重し、自由な活動を極力はばまず、国民がそれぞれ自由に努力して
経済活動を発展させることを奨励していることにより、国民の心が弾圧されないで
伸び伸びしていること、そこから派生していく、品格ある精神性の発達。

 政治は民主主義で議会政治、選挙があって、すべての活動を国がチェックして、
なるべく悪いことが行われないようにするという、自己浄化のシステムがあること。
 そして国に富があるときは、高い理想がなくても、福祉が充実しているので、
社会は荒廃しないですむこと。

 上記のことは、そういう意味で、誰がリーダーになるかにあまり左右されないので、
為政者が堕ちるところまで堕ちかねない共産圏より、クリーンな部分の感じられる国に
なれるのだと思います。

 共産主義は「性善説」で、為政者や政府の堕落を防止するシステムが
全然不備なためにひどい国になりやすいと思います。

 資本主義は「性悪説」で、為政者、政府の堕落をチェックしようとするので、
理想は低くても。ひどい国になりにくいのだと思います。

 しかし資本主義国も十分、国に経済力があるうちはいいのですが、
不況になると不正、犯罪が増えるのだと思います。組織ぐるみの汚職というか。

 社会保険庁だって、何と私らの年金を堂々とネコババしていたし、労働雇用関係も
段々働く側の立場が弱いようなものに落ちてきているし。不正は取り締まれない程、
上の方の中枢で行われていたりすると、いくら自由な国家であっても、
なかなか発覚しずらいですよね。

 また政府がゆるい代わりに、国のさまざまな種類の利益団体が強くなり過ぎて、
不正な圧力を政治にかけて、犯罪国家じみてくるというのが怖いところだと思います。
 政治家はこの利益団体の不正な圧力をくぐって、改革していかないとならないですから。


 という訳で、共産主義は政府が超強権力を持っていますが、
資本主義は政府政治システムはかなりクリーンに運営できるように作られています。

 この違いが、私を資本主義の方が好きにさせているのだと思っています。

 共産主義もカストロとゲバラの初代の頃は素晴らしいものだったと思いますし、
又経済が強く、世界の憧れの国だった自由の国、昔のアメリカも、素晴らしい国だったと思います。

 このように、良い目に出ると両方素晴らしいとは思いますが、悪い目に出たら...。
 例えば共産主義は「北朝鮮」や昔のソビエトや東欧のおぞましさ。
あ、軍事政権の暴虐支配で、悪名高いミャンマーは共産主義から社会主義になった国ですね。

 資本主義は、最近の日本に感じる「東南アジア」みたいな雰囲気。
一般労働者の労働条件の悪化と、一部の経営者や汚職の政府の富の独占。
 
 やはり共産主義も、資本主義もそれぞれの欠点を修正しないと、
歴史の間違いを繰り返すだけで、発達できないですよね。そこに今までのツケ、
環境問題が入ってくると、正直言ってお先真っ暗だし。

 ....と、何となく共産主義は、資本主義の社会政策の中に含まれるもののような
気がします。
 共産体制は、国の経済力が低下し、社会が荒廃して社会混乱を招いたときのみ、
国の行う臨時の非常緊急体制、保護政策として一部行われれば、

その良さが生きるのかもしれないと思います。そして経済が好転したら、
また体制を変えられる、過渡的な体制だと。

 国家ぐるみで共産主義にすると、システム自体が腐敗防止できないので、
おぞましい国になりやすい気が。

 と、この辺で「チェ・ゲバラ」二部作を観て思ったことは終わりです。

 最後に最近思うのは、本当に生活しにくい、大変な世の中になってきたということです。
もう日本の良さである終身雇用制度が崩壊してしまっている所が多いのだったら、
終身雇用でない国のアメリカの良さを取り入れてほしいと思います。
 終身雇用でない代わりに、アメリカは中途採用でもあまり制限ないもの。

 あと、こういう大不況の時代はつい誰しも「救世主」を願ってしまうと思います。
私だって、誰かすごい政治家か何かが現れて、不正、悪を正して、
何か目の覚めるような素晴らしい政策を打ち出して、、
国民を助け出してほしいと思ってしまいます。

(「いつか王子様が....」みたいに。(ひがみ根性かしらん?))

 そしてそういう、救世主のようでない政治家がいたらもうブーイングの嵐です。
それもまたこんな時代、本当に重要で、必要なことですが、
でもあまりに期待過剰で気が短く、良い政治家を少し育てようという土壌が
国民にまったくないと、マズいと思うことがあったりします。

政治のことは分りませんが、一般の企業や団体では、そういう考えありますよね。
(元OLの甘い考えかもしれないけど)

 またそういう「救世主」を望んで、あまりに自らを無力だと決めつけ、
救世主に期待過剰になると、足元を救われて、
パフォーマンスの上手い悪魔のような何かにダマされてしまいやすくもなりますよね。
 
 ヒトラーのナチスだって、最初は国民を熱狂させてくれた程、
口当たりのいいことしか言わなかったみたいだし。

ヒトラーは特殊な人種偏見を持っていて、それがある種の人たちには、
ヒトラーが死んだあともずっと魅力だったようですが、

 私は個人的にはヒトラーが、金融業に長けて、お金持ちの多いユダヤ人から
堂々財産を没収するためにユダヤ人狩りをしたのか?と思ってしまったりしています。
ただのドロボー(強盗殺人者)をカッコ良く美化するのが上手だっただけでは?
と思ったり。

 本当はほころびだらけ、不正一杯になった資本主義を修正して、
この大不況から国を救いだしてくれる救世主が現れてくれるのが最高のことだと
思います。

 でも、なかなかそういうのは難しいことかもしれないです。
それでも優れた政治家は待っていれば現れるような気がするので、
求め、待ち続けたいと思います。
 実際、歴史の中では、素晴らしい政治家が現れて救世主となったことだって、
けっこうありますから。本筋はそっちだと思います。

 そしてそれと同時に、そういうのを待つばかりでなく、
小さくは自分たちの身の回りで、何か少しでもより良い国に変わるために出来ることを
考えていくことも大事ですよね。
 今回の派遣切り、都道府県単位で助け船を出す所もちらほら出て、
素晴らしいと思いました。知事が活躍していますね。

 改革は、中央の政治家にしかできないことがほとんどですから、
何かすごい救世主が、国を一ぺんに大改革をしてくれることを待つのも、
皮肉でなく、本当に大事ですが、
 
 それと別に、悲観する訳ではないですが、誰も助けてくれないときのことを考えて、
もう少し小さい単位で、そして最少は自分たちの身の回りで、何かできることを
探していけたら、少しは気がまぎれるかと思います。
 まあ、一般国民のできることはささやかですが。

 裁判に陪審員制度が導入されますが、国政にも一般社会で働いている人たちが、
一部仕事として参加して意見を反映できるような、そういう制度があるといいなぁ、
と思います。今ある制度より、もっと積極的な方面で。
 まあ、私は何も思いつかないですが、巷にはいい意見、方策を持っている人が
けっこういると思えます。

 そして今までの歴史の中の良い所だけを、あちこちから取って、
そしてさらに進めた、何か新しい主義はないのでしょうか。
誰か考えてほしいと思いました。(はは)


(by 編集A)

(C)