※2005年5月31日発行Vol.6


不定期コラム 「調教」という言葉は、コーフンするのか?

はは.....これが「森の休日社」の話題でいいのか?という
カンジがありますが、ま、いいか。

気味悪い、サド・マゾ(以下SM)監禁犯罪が後を断ちませんね。
人を監禁して、自分を「ご主人様」と呼ばせてかしづかせ、被害者を「調教する」と
称して虐待する、変質者の性犯罪者たち。

私はこの気味悪い男達を、全く理解出来ないと言う訳ではありません。
そう、私はずーっと職場で「平」の身だし、「仕事も出来ない」し、不況が進んで
リストラされたことさえあるし、男にもモテないし。ある職場などでは、
社内で有名な「部下に超八つ当たりする上司」に当りました。 .....。
......しばらくすると、私はある日叫びたくなりました。「女王サマとお呼び!」と。

でもその時は社内に誰か彼かなぐさめてくれたり、助けてくれる方たちが
いて下さったので、社員旅行の宴会で飲んだ時に、
ちょっと「口に出してみる」位で済みました。「女王サマとお呼び」と。

(事情を知る周りの方々は許してくれましたね。”可哀想に”という優しい眼差しで、
私を温かく包んでくれましたね。ぐしっ。)

心理学等でよく言われるように、もし私が「東大でもバンバン合格しまくり、
男にもモテまくり、すご〜く出世しまくったり(これらのうちのどれか一つでも
あればOK)していると、逆に他人に「奴隷」呼ばわりされたくなるのでしょうか?
そう、マゾになって....。

「女王サマとお呼び」と言いたくなったように、
きっと逆もアリなのかもしれないですね。
そして「女王サマ」も「奴隷」もどっか、ウソくさくてアホらしいのは同様ですね。
多分こういう「ごっこ」していたら、しばらくするとムナしくなると思います。
※ちなみにこのあたりの機微は、ポランスキー監督の「赤い航路」などの
映画でも一部よく表現されていますね。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD16704/comment.html

私は「女王サマ」でも「奴隷」でもない、ただの私。ささやかで精一杯の自分。
人はみな何を選んで生きようと、唯一無二の大切な存在なのですね。
仮に「エリザベス女王」でも、仕事以外ではそれなりにフツーのヒトだと思う。

そこで不況が続くにつれて、大流行してきたSMって、
何なのかちょっと考えてみたいと思いました。「すぐ飽きる、軽いお遊び」から
「真性の異常人格」までいろいろあると思いますが、ここでは特に分けていません。
「調教」という言葉で、コーフンするヒトは単にアダルトもののマンガや小説や
ゲームの「ポルノ描写」とかで、条件反射づけられただけかもしれないし、
本当にそういう性癖があるのかもしれないし、それはどちらでもいいことです。

ただ問題なのは、子供たちさえもがこういう事件の被害者となって、
現実にこの種の性犯罪が後を断たなくなってきているということ、
又これ程ストレスの高い社会となっている中で、みんなで他者に害をなさずに
幸せに生活していく方法を探していく必要があることだと思いました。
(そう、私も「女王サマとお呼び」とか言わず、安らかに暮らしたいですね)

ではホントのSMって犯罪ってどういうことなのでしょうか?正直言って、
社会的心理学的、精神病理的によく一般に言われている通りなら、
「大体幸せなヒトが、ちょっと嫌な目にあう」と一番イヤな奴になる。」という、
よく言われる一般俗説に近いのかなぁ、と思いました。
悪質なSM犯罪者の背景って、そういうのに近い印象がありますね。

育った環境に同情出来る部分はあるけど、生きる上で本質的なこととカンケーない、
余計な他人の目とか、つまらないコトばっかり気にして、
コンプレックスを膨らませるエネルギーやひまのあるヒトっていう感じ。

意外ともっと恵まれない不幸なヒトの方が、ヨロヨロしながらも、
何とかがんばってまともに生きようとしている気がします。
(まあ、吹っ切るまでいろいろ悩んだり、葛藤はあったと思いますが)

ここではどうしたらSM犯罪がなくなるか?とか
そういう大問題に結論は出せません。
(私などには)ただ、一般によく言われていること等をもとに、
SMとは何なのかちょっと考えてみることにしました。

犯罪にならずに、かつ双方の望みであればまあヒトの勝手だと思いますが、
犯罪者の心理のように「相手は喜ぶはずだ」とか、
そういう都合いい妄想で一杯になった加害者が増える一方のようだし、
本当にああいう犯罪が消えてほしい。

そもそも「奴隷の調教」の調教といいますが、労働管理の方法として「奴隷」は
とても生産性の次元の低い方法とされています。管理サイドとしては、
奴隷を使うのが一番頭も気も体力も使わなくて楽な方法(良心さえ麻痺していれば)
とされますが、その代わり生産性が最も低い方法とされます。

せいぜい、大きな建物を建てるとか、そういうことに囚人や奴隷を使った
歴史がありますが、人は「奴隷」にされると、
仮にそれがその人の一番好きな仕事であったとしても、
最低限の能力しか発揮できなくなりますね。

しかも望むことは「奴隷状況」から逃げることが最高のことになるし、とにかく
後の「自由な社会の実現の後」の、いろいろな分野の驚異的発達の素となる
「豊かな創造力」や「のびのびしたやる気」というのは、
奴隷社会にはないですね。そのために「奴隷」でなく、
職場以外では対等な人間同士である「部下」を使う「上司力」の発達も
必要だったのだと思います。

まあ「平社員」が一番楽だといいますし、
管理職は胃を切る程大変な仕事ですよね。
(私は管理職でないので、幸せなのかもしれないです)

(1)ゲーム、漫画や小説等いろいろな「SMもの」を目にするという、
学習によって条件付けられ、開拓された新しい欲望の形。暴力と性的快感を
連動させる条件づけ的な繰り返し。

そして受け手側でなく、販売する側としては、「アダルト市場」という
昔からあるものの中で、更に新しい分野を広げることによって、新しい商品、
ゲーム、漫画や小説やグッズを新らたに大量に人に買わせるための、
新しい試みが常に広げられ続けている。メニューが多いと売れる可能性も
大きくなるから?

昔は幼児を性的対象にしようとしたり、しなかったですよね。
でも今は幼児に性欲を覚えるようにするための「条件づけもの」までもが、
沢山増えて、関連グッズが一杯売れるようになっている。

まあ「アダルトもの」は健康的な範囲ならある程度は許されるし、
必要だから昔からあるのですよね。ただ、それが犯罪に結びついたり、
子供達をはじめヒトの心をゆがめたり、社会にとって害をなすようなものなら、
止めてほしいですよね。

(2)不況が進む等で、人間関係が荒んだりギスギスしたりしてくる。
それによりたまったストレスを解消する手段。でもこういうSMっぽい関係って
童話「わらしべ長者」のように、回り回って結局自分に帰って来たり、
自分のいる環境を更に荒んだものに悪化させていくので、最悪の発散方法ですね。
SとMは容易に逆転すると、いいますし。繰り返しですよね。
「どっかに甘い分、どっかに辛い」なら、多分無理してるからかも。

誰かを「ご主人サマや女王サマ」にするのも、「奴隷」にするのも
結局本質は同じことで、お互いさげすんでいるのと大して変わりないですね。
誰でもお互い機嫌悪いときはあるけど、ある程度以上になると人迷惑ですよね。
そういう時は、バッティングセンターにでも行くようにお互いしたいものですね。

逆にこういう「たまったストレス」を他者に向けずに、趣味やスポーツに
上手く向けると、それが成功しようとしまいと、
素晴らしい「宝物」をココロに得て、日々の暮らしも少し楽しくなる
カンジがします。

私の昔の上司に、こういうタイプが数人おられました。
すごく大変なポストにいるのに、例えば写真やつりの趣味を持ち、
休日はびっしりそれに熱中してリフレッシュ。

私は彼らのような能力も体力もないので、
彼らよりずっと仕事が楽なハズなのに、休日もつぶれていましたね。
やはりパワーと精神的な余裕のある上司は、このタイプに多かった気がします。

(3)よく出世した人は、マゾになり、そうでない人はサドになるといいますね。
ただ出世していない人がサドになるかというとそうでもないですよね。
一生懸命働いている人は意外と別に普通ですよね。けっこう恵まれた境遇で、
かつちょっと精神的に屈折している人がそうなると。

2世とか入り婿みたい状況の人で、鬱屈した人に比較的多いそうですね。
(まあでも人には伺い知れない苦労もあるのかもしれないですし、
それに素晴らしい人、人格者やノーマルな人だって沢山いるハズ)
女性なら、特に学歴高かったり、スティタスの高い仕事についている女の人が
マゾになりやすいと。
これってシンデレラコンプレックスの変形なのでしょうか?

何か見栄でもマゾのフリをしたいものですが、
私のようなヒトはもう「女王サマとお呼び」になってしまって、恥ずかしいですね。
某団○六氏等の有名SM小説では、サド男が狙うのは
自分よりずっと社会的に恵まれた男の妻や子供、例えば「華族の奥様」とかで、
何かミエミエのカンジがしますよね。
(リアリティーのある人物設定というか)

(4)罪悪感の解消。昔ほど「性」はタブーでなくなってきていますが、
多少のタブー感はまだあり、それが罪悪感につながっていますね。大事なのは
避妊や病気に気をつけて、かつ互いに心身ともにポジティブな良い形で、
それを行うことだと思います。文部省等もそういうことで、
あまり責任能力のない子供に「性」を勧めないカンジがありますね。
でも今の子供達はそういうこと平気なようで、性教育も変化しているようです。
(大不況だから、他に楽しみないのか)

で、女性は昔から大体性において受身的であるとされ、その逆をすることに無意識に
社会的なタブーのプレッシャー、罪悪感がありがちとされます。
逆に男性は「性においてスーパーマン」のようでなければとか、
女性を支配しなければならないとか、性欲が強くなければならないとか、
どっちらかというと女性と反対方向の社会的プレッシャーがあるカンジですよね。

パートナーと十分心身ともにリラックスした良い関係があるなら、
大して問題はないと思いますが、こういう罪悪感があるために、
SMっぽい関係が楽に思える場合があるらしいです。

(5)マゾは「魚河岸のまぐろ」っぽくて楽だし、
サドは腕力と小道具があるので楽だし、疲れた現代人にはいいのだろうか?
でも段々ムナしくなってくるカンジがあるのではないでしょうか。

(5)生物的条件反射。相手がマゾでなくても、何かサドの人がサド行為を
行うときだけ、「愛情を相手にカンジさせるような演技、表現」をしたり、
何らかの快楽をもたらす行為(薬品等を使ってでも)を
関連づけて条件づけると、単に身体的なことだけなら、
一時的に人をマゾのようにしたり出来るかもしれないですね。

これがいわゆる「調教」っていうのか。ただこれは生理的反応だけで、
本当の愛情関係とは違うと思いますし、相手も真性のマゾの人か
ショック等で茫然自失の人でもない限りは続かない関係だと思います。

(6)優越感と劣等感の解消。コンプレックスは劣等感だけでなく、
優越感もありどちらもない人間はいないし、どちらも過度のものになると
「病的な精神のバランスの悪さ」というような状態になりますね。

一般に成熟した人間になるにつれて、こういうのは消えないにしても、
ある程度健全な範囲のものになり、乗り越えた状態になるとも
よく言われますね。いろいろな有名無名人のエッセイや自分史を
読んだり、話を聞くと、やはり誰でもどこかの時点でコンプレックスを
乗り越えるような努力をしているようです。

これは「何が出来るとか、出来ない」とかそういうことで
解消するというより、自分が真剣になれる何かをみつけて、自分なりに
取り組んでいると、段々人と自分を比べなくなって気楽になって、
「自我の確立」という方向へ進むからかもしれないですね。

青春の成人式のようなものでしょうか。
劣等感も優越感も過度のものは、大体思春期でクリアされる場合が多いようです。
まあ、とても恵まれた人で挫折を知らない人の場合は、
結構年を取ってからこの「思春期」が後で来るひともいるようです。

幾ら何かが出来ても、出来なくても、精神的に乗り越えてないといつまでも
「過度の劣等感や優越感はなくならない」といいます。
本当に何かを真剣やってると、又は、そんなにがんばらなくても自分で
マイペースで自分らしく生活していると、
他人はあまり気にならなくなるからでしょうか。

まあ何か出来るとか出来ないという次元のことは、勉強でも他のことでもやはり
「ある時点でしっちゃきに努力する」しかないですが、
ただ「がんばって、それに成功する」ことがイコール「幸せ」を連れて来るとは
限りませんね。

カシコク生きることが大事なのですが、
まあでも「好きなことをがんばりたい」人にとっては
「カシコク生きる、くそくらえ!」とい所でしょうか。

(6)生い立ちの中で受けた何らかの「虐待」「心の傷」「自分の負った
何らかのハンディ」に対する復讐心。
悲惨な虐待児ながら、それをちゃんと克服したアメリカのディブ・ペルサーの
著作を読むと、やはりそういうことは、辛いながら全身全霊でガマンして乗り越えて、
別の何らかのプラスになる活動に向けて、
エネルギー転換するしか方法がないようです。
(彼は偉大な人だと、つくづく思います)

昔、戦争のときに戦場に行って悲惨な経験をした人達に、帰ってきて意外と
自分の子供に優しい人が多かったのは、ハンパな不幸でなく、
本当に悲惨な目にあって何か良いものに目覚めたからかもしれないですね。

(7)サドの生みの親、マルキ・ド・サドはどんな人だったのでしょうか?
禁断の文学とか、思想犯とか、何かインテリジェンスあふれる
「退廃的・背徳の思想家」みたいに持ち上げる人もいるようですが、
彼は異常人格の犯罪者で
「医療刑務所」的な所にずっと入れられていた人ですね。

しかし思想もなにも彼の発想の根源の一つにある
「恩寵のないものに、責任はない」という考えにも、
どっか「シアワセな環境のヒト」をカンジてなりません。
貴族なので、生活が退屈で楽だったのでしょうか。

社会を機能させて、互いに害を与え合わずに良い形でみんなが
世の中を回していくのに必要なことが「モラル」ということだと
思いますが、彼はその「モラル」を徹底的に攻撃することが大好きでした。

彼は著作の中でとにかく徹底的に「悪人が幸せになり、
善人がヒドイ目にあう」物語を書き続けました。
それは「彼という悪質な人格」の正当化であり、
又気が小さい人だったのかもしれないと思います。

別に彼がどんなに学識があったとしても、知性とかを全然カンジないですね。
だって、社会をめちゃめちゃにするのは、簡単なことだし、
逆をやるのは本当に難しいと思うから。

何か「ちょっと、こういう話は....」というような話題で恐縮ですが、
最近の犯罪に多いSMというようなことについて、
今まで見聞きした一般的な話を集めて、いろいろ考えてみました。
(まあ犯罪にならないで双方そういう趣味なら、
他人の勝手だと思いますが)

本当にこういう犯罪が一切消えてほしい。現行の法律だと罪が軽すぎて、
又被害者が出続けるカンジがとても恐ろしいと思います。
子供や女性も安心して生活できる、平和な世の中になってほしいですよね。