音楽における中毒

目次

「崑崙茶」

「羊つき」

「キテる」ということ

♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪

 音楽、特にライブ演奏における中毒とはどんなことなのでしょうか。

 ひと口に「中毒、中毒」といってもその本質は何なのかはよく分からないです。
 一般客席レベルで少し理解できるのことは、二種類ありました。
 但し私程度で「中毒」なら、音楽の出来る人たちは「宿業」とでもいうのでしょうか。
 段階が全然違うと思いますので、あくまで一般初心者向けの話題です。

 たまたま例えが二つとも、文学に出てくる空想上の状態です。

「崑崙茶」

 一つは、「好きな人にとってはあまりに引力の強い種類の音楽」だということが
あります。 夢野久作の「崑崙茶」という短編小説のように。
 (角川文庫で絶版になって久しいはずですが、全集には入ったらしいです)

 「中国の、底なしの暗闇のような魅力のお茶「崑崙茶」。
この茶を味わうために大金持ち、貴人達が身代つぶして最後は衰弱死していく」話。

 耳に焼きつくデジタル音楽も、別の中毒を作り出しますが
それと別種類のやはり強い中毒を、アコースティック音楽は作り出してくれます。
 一般にデジタルと違って、時間はかかりますが。

 崑崙茶は麻薬の一種だと思いますが、お茶にはいろいろな種類があります。
番茶、煎茶、玉露、抹茶等々。
 
 どれも「育てる手間」等の費用の問題で価格が違いますが、
さりとてその美味しさはどれが一番とは言えないと思います。

 人間そのときの気分等によって、必要なお茶は違います。
 どんな高価な抹茶でも、香ばしい番茶を飲みたいときに出されたら
喜べないし飲みたくないですよね。

 何の音楽でも、それを好きな人にとってはそうだと思いますが、
私にとって「崑崙茶」を思い出させたのは、インド古典音楽でした。
 かと言って、他の人にとっての「崑崙茶」はそうでないと思います。
 
 どの音楽が「崑崙茶」なのか、そういうことはそれぞれの好みで違うと思います。


「羊つき」

 その他にもう一つ「追っかけ」を数年続けて体験した結果分かった要因。

 生で直接感覚器が受け取るライブ演奏の音楽は、
聴き続けると次第に苦しくなってくるということです。
 どこかが痛いとかいずいとか、そういうはっきりしたものでないのです。
ライブの音楽を聴き慣れて、いろいろ感じ取れるようになって楽しいのですが
何か微妙で得体の知れない、小さな苦しみが発生するのです。

 これは「自分で楽器を演奏する・自分でも音楽をやる」ということで
かなり治癒すると思います。
そしてそれが音楽をすることの嬉しさや気持ち良さに変わっていく。

 音楽が出来ない人が良いライブを聴き続ける内に、
出演者の演奏家に小さなジェラシーを覚えるというのと違い
(これも必ず一時期は大なり小なり必ずありますね)、
この場合、例え自分の演奏、音楽がどんなヘタなものであっても効果あります。

 つまり、これは作家の村上春樹の「羊をめぐる冒険」という本の中にある、
「羊つき」という状態にちょっと似ているような気がします。
 それは「体の中に出口をもとめて渦巻く、表現したいこと・排出したいことがあるのに
決して出せない、発狂寸前のような苦しい状態」。
 ライブ通い過ぎると生まれる、小さな苦しみの本質はこれとちょっぴり似ている気がします。


「キテる」ということ

 「キテる」とは、俗に何かがはなはだしく心身に染み込んだ中毒状態のことを言うのでしょうか。
 インド古典でも使う人がいるようです。(正当な音楽用語でないですし、こういう言葉遣いを
嫌う人も多いです。でも私、ミーハーさんだから使っちゃうの)

 インド古典の場合は聴いてしばらくしてハマって、その少し後ころになりやすい状態だと
思います。
 やはり一般客席レベルの「キテる」なので、大したことは分からないです。

 で私の場合の「キテる」は、まず口をきくのがかなり困難な状態のこと。
 そして頭の中は今聴いている音楽のことが渦巻いていて、とてもじゃないけど
周囲の人に注意を払っている余裕なんかなくなります。

 人はこのように音楽を聴いて極まると音楽の中に、
「人間」「自然」「宇宙」や「涅槃」」「真理」「神」等を見出すことも結構あります。
 他の音楽だって極まると、同様に言われます
インド古典はもともと音楽自体がそういうことを表現しやすいように出来ています。
 そのための音楽構造。
 だから「トリップ」して下さい、とうながすライブの司会者もおられますね。

 私ははじめのうち、音楽を聴いて何かを連想するなんて邪道で、
音楽のための音楽の演奏をただ聴いていたいと思った。
 何かに翻訳されていない、ただ音楽を音楽として認識したかった。(何のこっちゃ?)

 でもそういうように意図的に無機的に聴いていてもやはり音楽が表現していることの本質に
何かがあることを段々理解するようになってきました。入り口ですが。

 結局音楽の本質は人間、すべての森羅万象にある本質の普遍的な部分と違う訳ではないので
そうなるんだと思います。舞踊でも美術でも他のアートのみならず存在という存在のすべても
同様なのだと思います。

 さて最初にお断りしておきますが、この「キテる」という状態は決して自慢になることでは
ありません。
 なぜって、犯罪を犯す訳ではないですが人に対して「不愉快な態度」を取る可能性があるからです。
 こういう状態になっている免疫のない人(例えば私)が、インド古典の評判を下げるのかもしれないと
後で深く反省致しました。

 何が「不愉快な態度」なのかというと、それは「口の利き方」です。
 それ以外は全然大丈夫で何んともないです。

 ライブ会場に近づいてきたあたりから、それは始まります。
妄想としか思えず、自分の正気を疑いたくなるのですが
IEやものの本で読むと、インド音楽に中毒した人たちはみな似たりよったりのことを
書いているので、少なくとも「おかしいのは私だけではない」らしいです。

 頭がインド古典のことで一杯になって、音楽が渦巻いています。
 そういう時に、人に話しかけられるとどうなるか?
 そう、正直言って邪魔されたくないのです。音楽に頭を占領されているので
他のことに注意を払うゆとりがないから。もう人間としてぎりぎり精一杯の状態。
 だから一人で来るし、音楽に浸っている間は淋しくないのですね。

 で前に私はライブ会場で開演前に、
私が「いつも一人で来る淋しい人」であることに同情した知人に、
「ねえ、いつも一人で来てるの?」と聞かれたことがあります。
 その人は「淋しい」私に同情して、「これからは一緒に来ない?」というニュアンスで
優しく聞いてくれたのです。

 でも私はキテて、かすかに麻痺したような頭の中には
インド古典音楽にまつわる妄想がとぐろを巻いている状態。
 やっとぼやけたような視界の中、目の前の知人が自分に話しかけてきたことを認識した私は、
あごがだるいかのように重くなった口を必死で開いて、答えました。

「うん、人に話しかけられないように一人で来るんだ(ライブ会場に)」と。
そして知人から目を離してうつ向き、また自分の世界へ没頭してしまいました。

「・・・・・・・・。」
唐突で失礼くさい答えに、知人はちょっとびっくりした顔でそそくさと去っていきました。

 それでもしばらく経って、その時期が過ぎないと自分の態度の意味が良く判別できないのですね。
 反省したのは、しばら〜くあとになってからでした。(許して〜)

 ただこの初心者症候群は、前もって知っていると防げると思います。
 私の住む土地にはライブでインド音楽を聴いたことある人さえも多くないので
そういうマナーは知られていない。
 しかも一回や二回聴いただけでは、こううい状態にならないのでますます知られていないと
思います。

 これは前もって知識があれば防げる状態です。
 たまたま私の人格が未熟なせいも多々あるのだと思いますが、
IEや本でいろいろなインド古典ファンのことを調べると、似たような状態の人が結構いたので
また驚きました。

 (特に私は自制する力が弱くて、
このように人格的低さを露呈するハメになったのだと思いますが)

 インド古典を聴く客席の初心者に、私が伝えたいことの一つはこれでした。
 あらかじめちゃんと知識がないと、妙なことになってしまうことを。

 今も似たような状態なのですが、もう分かっているので一生懸命他人に失礼なことを
言わないように気をつけられるようになりました。
(でも自信ないから、常に一人で行っちゃいますね。ゆとりがない状態)

 一体「インド古典」ベテランの方々は、どうやってこの中毒状態から抜け出したのでしょうか。
 演奏者の方々達はいたって健康、中毒してないように見えてうらやましいのですが。

 



(C)