「アート系のプロになるまでに人が出会う問題について」

 ひとりの人間がアーティスト(アート系の職業全般も含む)としてプロになり、
どんな表現をしていくかは千差万別、多種多様、深遠で複雑なことだと思います。

 しかしそれ以外のことについてアート系を志す人がぶつかる、特有の問題は割りと単純かもしれない。
 「生活」と「アート」の両立。
 卵のときから、一生涯それはついてまわる問題だと思います。
 一人前になるまでのトレーニング期を終えてプロになれても、先の保証は何もない職種。
一度プロの水準に達すれば、安定した収入を得られる職業の人たちに比べるとちょっとハードかも。
 しかしこれほど大不況の世の中になると、好きでない手堅い仕事を選んでも失業しない可能性は
ないので、あとは本人の選択と割り切りですね。

 しかもアートを推し量る絶対基準はないです。
 ゴッホのように生涯不遇の人もいれば、ピカソのように恵まれた人もいる。
(まあでもこれは極端な例であり、大抵の場合は少なくとも
良いものは一生懸命PR活動をすれば、ある程度のファンもつくと思います)

 それでここではこの道を志す多くの人が、どこかの時点でぶつかる問題について以下のことを中心に
書いてみます。

A.「早い人と遅い人」

B.「学校のこと」 (他トピック 芸大の話)

C.「それぞれの生き方の良さ 夢のない人や、二足以上のわらじのある人」



A.「早い人と遅い人」

 まず現時点でプロになれる力量があるかどうか、それによって必要なことや選択が違います。

 何才から始めるかは、並外れたトレーニングが必要なアート系の仕事について結構大事な問題です。
 はっきり言って、胎教から生まれた環境の違いは大きいです。
 
(だからと言ってステージママの女王「バイオリニスト・五嶋みどりのママ」に似ても似つかない
例えば、音痴でぐうだらで冷たくケチな自分の母親を責めるのは、 お門違いというものですね。
なまけものでチャラチャラしたエゴイストの子供であった私たちと違って,
娘「みどり」は、吐くほど練習してきましたから)

 不世出の天才教師・レオポルドの息子「モーツアルト」がいい例ですが、
スタートが早いことは圧倒的に有利です。
 胎児のころから、三才や五才からトレーニングを始めているアーティストは結構います。
 それはそうでない人にとって死ぬほどウラヤマシイことですが、
この幸運さはすなわち、酷さでもあります。
忘れてはいけないのは彼らはそれだけ、大変な思いをしてきたということですね。

 つまり他の子供が近所の子たちと「お医者さんごっこ」や「リカちゃん遊び」をしているころ、
ひたすら死ぬほど練習していたということでもあります。
 好きで始めたことならいいのですが、
好きでなくても親の勝手な思い込みで無理やりさせられる場合も多いよう。
 練習マシーンのような子供時代もまた、いろいろな問題を含んでいますから。
 又それでも「正しい教育」をほどこせるような親ならいいのですが、
「激しい思い込みによる間違った教育」である場合もありますね。

 少年漫画「巨人の星」の鬼父・星一徹は、良かれと信じて結局息子・飛馬の腕をダメにしてしまいました。
 (そういうことをされなかっただけでも、幸運なのかもしれないですよね)

 さてイワユル「幼児天才教育」が成功したとしても、
後で一度以上は精神的に行き詰ることもあるし、遊ばなかったことの弊害もあるよう。
 好きで始めたことでないので、どれ程高い水準の技術があっても途中で止めてしまう場合もあるよう。
 そしてその「トレーニング」以外の必要な教育、しつけがどうしても手薄になってしまいがち。

 さてこのように、人によってスタート時点ですでに大きく差がついているのですが、
世の中にはスタートが遅かった、素晴らしいアーティストも結構います。

 技術的にはこの「遅い人たち」は、「早い人たち」に追いつくためにかなりの無理を
しています。学童期を過ぎているので、生活の苦労もあるし食べるための仕事と
ハードな練習の両立が大変。

 しかしこの人たちの良い点は、本当に好きなことを自分の意思で始めているということ。
 そして一般に普通の必要な情緒を含めたまともなしつけ、教育を受けられたということですね。
 一般には土台がしっかりしているので、人間的に丈夫な部分があると思います。

 
B.「学校のこと」

 そのアートに特殊な教育が必要な場合、「学校」に行かなければなりません。
 しかし費用不足や親の不理解、目指したのが年をとっていたから、入学試験に合格しない等の
理由でその学校に行けない人もいます。

 学校にはその道で成功した先輩の教師陣、学校自体のパワーの指標にもなるので
卒業生を多少はバックアップする「学閥」の存在、働かずに一生懸命何年間かその道の勉強が
思いっきり出来る事等良い面は沢山あります。
 カルチャースクールから大学まで種類はいろいろありますが、
はっきり言って「受験勉強したかい、金を払ったかい」が学校にはありますね。
 
 ただアートには国家試験がある資格が必要な訳でないです。
例えば学校出た人しかプロになれないのなら、
その業界自体がウソくさいというか信用なくなるので、数は少ないですが学校出てない人でも
ちゃんと水準に達していればプロになっています。

 独学のいい所は、好きかどうかもどういう世界かもよく分らないのに学校へ入ってしまい
後で「向いてない」ことが分ってヤメるという悲劇がないということ。
 本当に好きで初めて、困難があるので「したい意思」が煮詰まり濃くなっていること。 

 学校行かない分、完成度の高さを要求されますので並外れた練習量が必要になります。
 
 しかしその分野の勉強は遅れていても、世間や人生、人間のことを勉強しているので
アート以外のことではプラスする部分もあるようです。

 アートでなくて考古学ですが、シュリーマンは生活が大変で強い夢だった考古学者になるための
学校にいくことが出来ませんでした。
 それで定年退職まで別の仕事を勤め上げて、その後に夢を実現した話は有名です。

 しかし、できれば一番いいのは何の障害もなく良い条件の元で
ひたすら無駄な余計なことをせずに、「その道」の勉強にまい進できることだと思います。

 ★ちなみにここで「芸大の話」をちょっと

 なぜ芸大の話をあえて書くかというと、今まで複数のアーティストから似たような話を聞くことが
あったからです。

 私のとても好きな絵を描くプロの画家が「親に反対されて家出して
働きながら「東京芸術大学」を受験し、落ち続けてあきらめた」話しをしていました。

 結局専門学校でさえないような所で絵を少し勉強することしか出来なかったそう。
 しかし彼はその後、ごく若いうちに展覧会に入賞したし、プロの画家になれています。
 苦労の連続の人生ではありましたが、根強いファンもいます。

 確かに芸大は教育レベルが高く、権威であり、学閥の強さからも行く価値のある学校らしいです。
 受験に続けて七回失敗して首をつったとか、そういう話さえある程。

 彼は私から見ると素晴らしい画家でありますが、彼は芸大に行けなかったことを
生涯の痛恨として、50才代になってもまだ延々と悲しみ続けているのです。
 私が彼の絵が大好きで、彼が絵を勉強したその小さな研究所までが素晴らしい所に思えた程、
素晴らしい画家なのに。
 
 彼はどうしてか大きな美術団体に所属しないで、画商を通して個展を定期的に行い活動しています。
 芸大好きな割りに、結構画家としての生き方が不器用な印象がありますが
そう思うのは外野の余計なお世話ですね。

 もう一人私の知人の素晴らしい画家に、芸大の大学院を出た人がいます。
 でも画家として人間として決して器用な人でない。
 純粋な部分の多い人だし、そういう生き方をしています。
 人間のタイプとしては、前出の芸大に入れなかった画家と似てない訳ではありません。

 で、この人の話を聞くと、やはりこの人たちは芸大受験をクリアするために人並み外れて
大変だったということが、うかがえます。
 私は家族も知っているのでそう思ったのですが、
もうご幼少の頃から、お受験ママのようなものに責められながら育ったのですね。
 
 例えば私が幼少の頃アイスキャンディーを食べながら、うつろな目でボケーっと道を歩いている時も、
彼女はその偉大なママに、道に生えている植物について一つ一つレクチャーを受けていました。
 それは何科の何という植物で、それがどんな形や色をしているかどれ程注意深く見ても足りない程
大切に観察しないとならないことを、言われ続けたのですね。
 だから大学受験の年になった時、観察力、デッサン力等基礎力が全然違いますね。
 
 しかももう18歳位からそれだけ力のある人でないと入学出来ない学校なので、
入学と同時に彼らは「若い芸術家」として扱われ、教育を受けています。

 私の知っている「芸大に行けなかった画家」の方たちが昔若い頃、このような育ちの芸大受験生たちに
及びもつかす、歯が立たなかった理由がよく分りました。

 しかも芸大のアーティストは芸大以外のアーティストの指標・標的にされて、多分大変だと思います。
(東大出の人と似た存在なのかも)

 そして子供のころからひたすらトレーニングを積んできたために、
精神的に一度以上は辛くなったり行き詰ったりするし、情緒・精神面で後から
バランスをとる苦労があるようです。

 大事なのは教育を受けることでなく、プロの画家になることですね。
 受験の年齢に、力がなかった分人並み外れた努力をして彼らはプロの画家になり
素晴らしい画業を続けています。
 スタートは遅れたけど、ハードながら必要な技量を身につけることが出来れば画家にはなれます。

 画家の人生にとっては、出身大学や所属美術団体等いろいろな問題があるのかもしれませんが
単にファンから見ると、どこの何であろうとキマリのないアートは関係ないと思うのですね。
 芸大を出てなくても、出てても好きな絵、いい絵はいいし、そうでないのはそうでない

 でもなーんて言うと、お気楽な人だと思われるのですが。

C.「それぞれの生き方の良さ 夢のない人、二足以上のわらじのある人」

 「ミュージシャンは働かない」と言って、どんな貧乏してもデビューするまでがんばったのは
RCサクセションの忌野清四郎ですね。マドンナもごみ箱を漁ってデビューまでがんばった。
 生活のために夢をあきらめたり、遠回りする人も多いですが、
「ヒモになってもホームレスになっても、ペットフードを常食しても、好きなことしかしない」人もいます。

(そういう生活をした人の夢が実現する確立が、多いのか少ないのか分らないですが。
 意思の問題、自分に負けてしまう人は何をしても同じ結果に。
 でも自分に負けた方がいい場合もありますね。あきらめて別の道に行って精進しそこで幸せに
 なれる場合も多いですから))

 でも両立タイプ、ガードマンをしながら活動を続けたGLAY等、
働くというハンディを背負って後で、大成功する人もいます。。

 まあでもこういう人たちは「一攫千金」の報酬の可能性のある業界なので、がんばる甲斐もありますが
大抵のアートのジャンルでは、夢がかなっても「大御殿」が建つ訳ではありません。

 もっと堅実でひそやかな問題「限りある一生の「持ち時間」を主に何をしてすごすか?」が
焦点になると思います。

 で生き方としてまったく完全にタイプ別に分かれている訳でないですが、
三種類の生き方のタイプがあると思います。

まず私の好きな、憧れのタイプ@。

@一つのライフワークを追求していくタイプ

 一般に「一芸タイプ」とも言われますが、何かアートでも他の職業でも一生に一つのことを決めて
それに全力を注いでいくタイプ。
 中には趣味も全然なくて、公私共にすべてその一つのライフワークのために人生設計をする人も。

 一つのことしかしないので、専門分野のこと意外はあまり世間に疎い部分がありますが、
にも関わらず彼らのものの見方は決して偏っているばかりではないと思います。

 「木を見て森を見る」というか、一本の木を学ぶことで森のことを推し量り、学べるという感じ。
 彼らの話には、ある特定の狭い分野で生きたにも関わらず普遍的な人間やものごと、人生の
エッセンスが見え隠れしていて、私は好きです。

 この@をアーティストとして貫くのは、かなり精神的にもハードです。
 一つのことを先の保証もない世界で最後まで続けていくのは、
本当に芯の強さが必要だから。

 ただ@はAの幾つかライフワークのある人に比べて、必ずしも水準が高いとは限りません。
 Aの人でも練習さえ適切で量をこなしていれば、@より水準の高い活動成果がある人もいます。

 でもそれでも私は@の方が好きなのは、どっか人間味を感じやすいからかもしれないです。

 一芸の人って、人生そればっかりで暇もあまりなくひたすら精進する人が多いですが
ただ精神的人間的に他の部分で腰が落ち着いているというか、ゆとりをどこかに感じるからかもしれない。
 書道の余白の部分のような趣。

A二足以上のわらじのある人

 俗に「二足のわらじを履く」と言いますが、
ライフワークが二つ以上ある人のことですね。
 例えば、サラリーマンをしながらオフでプロとしてアートやその他の活動を平行してする人。

 いろいろな理由があり、好きな仕事で生活できないので仕方なくしている人もいますが
ポジティブな理由、つまり一つでは物足りなくて二つ以上の仕事をする人。

 一応本当は@をしたいのに、生活できないのでAをしている人はこの際除外いたします。
 好きなことが二つ以上ある人のことをAとして分類。

 器用貧乏ということばがありますが、二つ以上しているからといって
それぞれが必ずしも@の人に比べて水準が低いとは限りません。
 時間を要領よく使い、全力を傾けて仕事をすればそれぞれのフィールドで素晴らしい成果を
上げることが出来ます。

 代わりに分刻みに時間を意識して、生活しなければなりません。
 素晴らしい能力だと思うし、尊敬します。
 しかし個人的には私は、@になることに憧れます。

 Aはグレートですが、ライフワークが多い分犠牲にしないとならないことが多いと思うし
生活にも精神的にも書道でいう所の、余白がない感じがする。
 多分能力的にあまりにスーパーマンというかすご過ぎて、親しみが持てないせいかもしれない。
 人の何倍も人生を全力疾走で生きる人たちは。

 ただいくつかのライフワークを同時並行でおこなうために、
世間に疎くて、偏っている部分も確かにある@に比べると、
バランスのいい、広いものの見方のできる人が多いかもしれないです。

 森を見て、一本の木のことを推し量るのでしょうか。

B特に夢のない人

 ちなみにアート以外の仕事も結局は生涯修業の連続であり、
「クリエイティブでない仕事」とされるどんな職種でも創意工夫が必要であり、
何でも似たり寄ったりだということは誰もが年を取ると知ることですよね。

 そして別に「特に好きな仕事でない」とか「趣味はない」とかそう言って別に
そのことに不満を持たない人もいます。
 多分それは口でそういいながらも、仕事やオフの生活に何か充実した満足できるものが
あるからだと思います。
 だから本当は@やAの人と違わないかもしれない。

 私は出来れば@が憧れなのですが、
Aでも@でもない人も沢山います。

 Bは仕事は嫌いじゃないけど生活のためだし、
あとは特に趣味程度で「私は普通の生活をしているよ」と言うタイプ。
 「普通の人」というタイプですね。

 このタイプに@とAがカナワナイと思うことが、少なくとも一つある気がします。

 たとえばアート系なら@もAも見るもの聞くもの、接する人のすべてが肥やしというか
表現していくことの種となることになりやすいです。

 でも人生は「表現するため」にあるという人と違って、
Bの人はただあるがままを感じて、生きていける。

 それはものすごく偉大なことのような気がします。

 Bの人も別に暇でなくて忙しい人が多いです。
一生懸命仕事をし、オフは友人や家族と付き合ったり恋愛したり。

 もちろん恋愛も「芸のこやし」という必要なのかもしれないけど、うさんくさいものでなく、
ただそれ自体のためだけの恋愛。
 旅行行ったり、プロになれる程がんばらないけど大事な趣味があったり
または趣味としていろいろなことに手を出したり、又音楽、映画、本を楽しんだり。
 日々を快適に楽しくすごせるように、積極的に工夫して生きている人が多いですよね。

 A程でないけど、やはりハードスケジュール。

 誰かや何かをただ愛して生きていく。
 何かを表現するためにすべてがあるのでなく、ただありのままに感じて自然に風に吹かれるような
生き方も素晴らしいと思う。 

 
(by 編集A)


 
(C)