Aワールドミュージックについて

 ワールドミュージックは明確な定義がありません。
 昔は「英米以外の国のポピュラー音楽」という意味で使われていました。
 
 現在は、音楽的に多国籍な部分のある、ポピュラー音楽のことですね。
 世界中で大ブームに。
 発達したメディアにより、世界中のほとんどの人々が
自分の国以外のあらゆる国の音楽を聴いて育ちますよね。
 そこで言葉の意味が、変化し始めているのだと思います。 

 

 井上さんのワールドミュージックは、
やはりデジタル楽器を使わない演奏でまとめられています。
 
 ★インディーズレーベルの嫌な所は、制作の時に予算に合う決まった枚数をプレスして、
それが売り切れると販売終了となってしまう場合が多いことですね。(メジャーも同じか)
 井上さんのも、昔のは手に入れるのに苦労しています。

 私が持っている井上憲司さんプロデュ−スのオリジナルのCDは以下であります

☆簡単な解説☆

「水琴窟とタンプーラ」 1994年  倍音オーケストラ

演奏(南澤靖浩・南澤まりこ・井上憲司)

 江戸時代に水の音を響かせるために土中に埋められたカメ「水琴窟」と、
裏方楽器のタンプーラ群による瞑想的な音楽。二部構成。
 
 非常に微妙な音と音の重なり合いによって、高まっていく意識の移ろい。

「JAZICAL WORLD」 1994年 JAZICO(リ−ダ-井上憲司)
 
(演奏 吉見征樹・山田晴三・太田惠資・宮野ひろき・井上憲司他ゲスト)

  シタ−ル・バイオリン・ギター・ベース・タブラ、
超上手い演奏家ばかりのユニットJAZICO。
 不朽の名曲「アレキサンドリア」他。
 
 (CDの出だしにユニット名をみんなで繰り返し連呼する所が、いたい気。)



追記 2005年9月

★ちなみに、活動をお休みしていたように見えたこのユニット「JAZICO」は
2005年9月又東京で活動をするようです。

「JAZICO」はCDでしか聴いたことないのですが、
このユニット名は「影」という意味だそうです。

個人的に連想したのは、アコースティック楽器の超上手い演奏家達のライブを
聴いて、良い音の振動までもが、かすかに客席に伝わってきたときのこと。
耳にとっては「音」という以前の、かすかで、でも確かな波動。

このアコースティック楽器ならではの、音の振動が、客席にとっては
「音の影」のように思えたりします。

(アートはそのとき、そのひとによって、想起されるものが違いますが)

「FOOJEAN」 1999年 井上憲司

(演奏 逆瀬川健治 吉見征樹 クラット・ヒロコ・古幸邦拓 
CARLOS・GUERRA 寺原太郎 福原左和子 常味裕司 友枝良平 横山貴生 綛田陽啓
山田晴三 内田光一 井上憲司)

 諸外国での活動も多い井上さん。海外の評価も高かったこのCDは
国際親善・普及にも、必要な役割を果たしていたと思う。

 大別すると、シタールメインの二種類の音楽。
 日本の伝統音楽を他の文化圏の音楽と融合させたワ−ルドミュージック。
 
 また、きらめく北海道等の大好きな風物を凝縮して音楽にした曲。

 いずれもベースのテーマである「風」の形を、シタールならではのリアルさで表現。


 三枚とも簡単に解説を入れましたが、
他の関係のいろいろなHPで紹介してあるCDですので、
ここではそれらのCDによって個人的に学んだこと等を書きます。

 音楽って、静かに耳を傾けていると
いろいろなことを喚起してくれるし、気づかせてくれるし、
考えさせてくれますよね。
 インスパイヤーされるし、教えられる。
 
 そういう良い時間が持てるように、生活の中に落ち着ける時間を
取って置きたいなぁ、と思います。
忙しい忙しい、だけで人生終わりたくないと思う。(大言壮語・ビンボウ暇なし)

あ、と井上さんの古典のカセットテープの分は@の最後の方にあります。



☆個人的感想☆

CD「水琴窟とタンプーラ」 

(これは普通の音楽より、ずっと瞑想的な音楽なので、
 考えたことが多かったですね)

 これ聴いたあとおかしなことを考えてしまいました。

 「味の素」は必要かどうか?
このCDを聴くとすごく考え込んでしまいます。
 給食世代からは基本的に味覚音痴だと言い切る人がいますが、
「おいしい」とは何か?
「食事」とは何か、「栄養」とは何か?

 ものの話によると料理でかなり高名な人でも、
場合によっては「少しは味の素入れないとおいしくないよ」というそう。
 たとえなるべく自然のものを食べるようにしていても、
時々無性に食べたくなるあくどい食べ物の味。
 (ここ20年位なるべく食べないようにしてるので、
そういう”フラッシュバック”はもうほとんどなくなっています)
 
 これって音楽にもあるよな、と思います。
 自然なだけでも必ずおいしいとは限らない。
(「おいしい」が日常の食事にどれほど必要かは別として)

 ただ場合によっては純自然の材料と調味料でも
とてもおいしいこともあります。
 そしておいしくても、今イチであっても
純粋な自然のおいしさって、本当に心から安らぐものですよね。
 
 さてとにかく井上さんの自然は、とてもおいしいと思いました。
 
 音楽を聴くときは、音が連れていってくれる所が目的ではなく、
音楽を聴くのが私の直接の目的ですが、
でも良いものがみなそうであるように
いろいろなことを示唆してくれて、
作者、演奏者の意図を越えた良い次元と同調していくのだと思います。

 このCDは初めて聴いた時五回目で化けました。
 
 部屋でこのCDを続けてずーっとかけていた時。
 じっくり聴くのでなく、他のことしながらBGMみたいにして聴いていた。
 CDの解説も読まずに、とりあえずかけた。

 冬でした。スチ−ムの効き過ぎた部屋で5回目位にさしかかった時
突然耳に奥行きができたみたいになって、
 建築物というか構築物みたいな立体感を音が持っていることを現し始めたように。

あの時は「わっ」、とびっくりしたものでした。

 初回から後は、初回程はっきりと化けることはなく、
多分その分最初から聴こえるようになっていると思います。
 
 後でジャケットの解説を読むと、そういうようなことらしいことが少し書いてあったので
安心しました。
 
 あの構築物が透かしのように浮いてくる感じは、
今まで他の人の音楽で二回体験しています。

 (私の聴覚の未発達さに起因しているのかもしれません)

 確かに音楽に絶対有利なはじめから優れた聴覚、というもが存在すると思います。
 でもそうでもない人でも長い間聴きつづけるうちに、
耳もそれなりに敏感になっていくと思います。

このCDは上手くいった素晴らしい瞑想を追体験させてくれるCDだと思った。
   瞑想するためのCDじゃない。そしてでもこれで瞑想したら最高だなぁと思った。

 二部構成のうち、

「黎明」はかすかに染み入ってくる、
澄んだ朝の冷気、露、鳥や草や木々。水滴。

 雑念一杯で心がちょっと焼けたようになっていても、
耳を傾けていると段々、段々音と音の間隔の
間に心の振幅が整ってきて、静謐な安らぎ、
段々シンプルになっていく自分の想念。
 
 音楽的に「黎明」は絶妙な感じで、
 単に心地よいだけでなく自然とタンプ−ラの演奏と何もかもが合っていて、
 音楽になっていて、かすか-に底の方からうっすらと「喜悦」の素のようなものが湧いてきて、
だけどそれは余計なものが落ちていく心身のプロセスをじゃましたりはしない程度で。

 私は「黎明」大好きであります。
 
 段々自然とタンプ−ラの作り出す音楽に気持ちが静かに反応して、
いろいろな種類の良い意味での心地よい状態を感じられるのですが、
その全部が「シンプルになっていく自分の想念のプロセス」をじゃましない、
かすかな変化で留まって。
 あくまで全部の変化が最後まで自然の力で、
そうとしか感じられないから素晴らしいと思った。

 この音量とか響き方とか全部調整してCDにするのはとても大変なことのような
気がします。(人ごとながら、素人ながら)
 
 水音で始まる「光明」は「黎明」とひと続きで移ったの気づかない位。
 
 落ちてくる水滴の勢いが強まって。でも違う曲。
 
 明け方は一日のうちで一番エネルギ−が強いそうですが(中国の気功ではそういうと)、
 光に包まれて、その力で上方の高い方へ引き上げられていく自分を感じました。
 
 このタンプ−ラが光の波長と合っていて、光を感じさせてくれる。
 
 タンプ−ラみたいな地味な裏方楽器でCDを作る井上さんっていいなぁ、と思った。
 タンプ−ラから豊かに沢山聴き取れているからできるのだと思います。
 井上さんだけでなく、ここに登場する沢山の演奏家の人たちみなさんも。
 
  ドイツ人等の「瞑想用」音楽で有名なCDを昔何枚か持っていました。
  
 素晴らしい音楽だったけど、
それは瞑想するのを妨げずにサポ−トしていくような実用性があった。
 
 でもこれは「瞑想するのをサポ−ト」するのでなく、
音楽が染み入って来て、「瞑想の状態」を追体験させてくれる感じ。

 多分井上さんがある種の素晴らしい瞑想をご自身でしたことがあって、
その状態に聴く人をもって行ってくれるための音楽だと思った。
(か、どうかは実際わかりませんが)

 だけどそれは作為的とか操作しようとかそういうあざとさが全然なくて
(特に「黎明」すごい)
 多分聴き手が追体験しているこの素晴らしい瞑想状態が、
かつて井上さんが体験した素晴らしかった瞑想状態と
同じものなのかもしれないと思った。

 このCDは操作的に私達にそれを追体験させようとしてるわけでなくて、
すぐれた音楽の力で私達を運んでくれているのだけど、
それのベ−スになった井上さんのかつての瞑想状態は「井上さんの」というより、
誰もが共振する普遍的な良い瞑想状態だったのだと思う。

 だから音楽、井上さんが作為的に運んでいくのでなく、
音楽が静かにつけてくれたプロセスのかすかな軌跡を辿って
自然に運ばれていくのだと思った。

 これで瞑想したら本当に素晴らしいと思いました。
 
 ただ一つちょっと後ろめたく感じるのは、
 「喜」で瞑想してもいいのかなぁという妙なことでした。

(うーん、このあたりのことは、あまりそういう方面に明るくないし、
 そういう修行をする予定もない私には分からないことでアリマス)

CD「JAZICAL WORLD」 

 この中の「アレキサンドリア」という曲は、聴いているだけでも最高に好きな曲、
不朽の名曲だとワタシは思います。

 でもそれだけでなく、一つ考えさせられ、教えられたことが。

 私は全然音楽と関係ないことをライフワークでしています。(誰でも何かはすることがある)
どちらかと言うとアート系。

 でも未熟者のせいでいつも最後の形を整えることがおろそかになってしまう。
軽視していまう。とりあえず内容さえ伝われば、形はとりあえず二の次。
 仮に表面的にはデコボコとぼろがないように整えても、
構造的には無神経な感じになっていまう。

 でもそれは大間違いだとこれ聴いて教えられました。
 この曲の個人的感想
 
「全体を掌握する力とその形の美しさ、その値打ち(はは俗っぽい感想だ)」

 言語を媒介にしない表現形態を持つ、音楽は(美術もかなりそうですが)
言語領域と違う部分で、言語が持ち得ない高度な知性の開拓を可能にする表現形態だと思います。

(はは......、と書いても音楽能力の低い私にとっては、良く分からないものでもあるのですが)

 「美しい形」(ビジュアル系の美ともまた全然違って、数学とかそういう系の私があまり把握できない
 種類の「美」というものが、音楽でいう「美しい形」に似てる気がします)

 ただ良く分からないですが、
音楽・美術・また言語系のどれが上とか下とかそういうことをセコセコ考えるより、
それぞれの良い部分を必要に応じて、学んでいけたらいいなぁ、と思います。
 
 うん......、ちょっと難しくて私には良く分からないことです。

あと、このCDには歌が一曲入っていました。それについては、リンクの方に





CD「FOOJEAN」 

 どの曲も大好きです。井上さんのCDは一作ごとに違う作風という気がします。
 これもまたとても素晴らしい一枚でした。 

ただ、考えたことの多かった曲ということでこの一曲を選びました。

 「月下美人」という、月の出てる間だけ花が咲き、
花びらは開いたら一晩で散るクジャクサボテンの花の名前の曲です。
 メキシコ・南米産の美しい花で、とても珍しく又印象の強い植物です。
 だからこの花に触発されて、いろいろな人がいろいろな表現をしてきました。
 井上さんもその一人だと思う。

 解説にも、解説者の方がその花の独特の短い命の美しい夜の魅力を、
とても上手く表現して書いてあります。

 解説者の方もそして音楽をつくった井上さんも、万物それぞれにあるがままで
否定も肯定の意味もこめないでいると思います。
 そしてそれが絶対に間違ってなくて正しいのも知っています。

 しかし、私はこの曲で感じたことに「森の休日社」の考えと
リンクする部分があったので、この場をお借りしてちょっと書いてしまいます。

  私は植物は花も好きだけど、くきと葉っぱも大好きです。
 花は一晩だけど、草と根はず-っとあって来年もあるので、
また何回もず-っとこの植物にいてほしいと思います。

(サボテンだから「くき」とかないか)

 怖れ多いことですが、私はひとつ「森の休日社」の作品に望むことがあります。
 それは以下の考えにどこかリンクしている作品を出版したいということです。

 私は「人生を超加速して駆け抜けて、めちゃくちゃな生活して自滅してしまう」
ある種の人たちの生き方が好きくありません。
(超加速している間の大変さ等々で反動がくるのだと思いますが)

 若い時期に素晴らしい活動をして、めちゃくちゃな生活をして、
そして行き詰って死んでしまう感じの生き方。
 (そんなの人の勝手だけど)

 そう、太宰治(ああ、口に出すのも怖れ多いですが)とかそういう人たちのこと。

 別にこれは太宰治についての個人攻撃ではなくて、
そういう「長く生きるつもりはない」的意識がいやだな〜、と近年とみに思うだけの話なのです。

 世の中、才能と呼ばれる「何か」の業績を上げることが人の存在価値みたいに
思われがちですよね。

 確かにその人の人生でその「何か」がしたいこと・ライフワークならそれをするのは
その人にとって素晴らしいことですが、
 本質的に大事なのは結果ではなくて、
心と体と、何十年分かの命を与えられて生まれてきたことが一番大事ですよね。

 こういうのは良く言われることですが、せちがらい世の中になると
ふ、と忘れそうになったり........。
 
 どう考えようとその人の自由ですが、
大切なことは、生まれて来てから死ぬまでに何かしらじりじりと行きつ戻りつ成長し、
何かを学んで、感じて、良き思いの方へ向かっていくことだと、思うようになりました。
年を重ねるごとに。

 誰にとってもライフワークは、とても大変ながらも一番楽しいことですよね。
 それがあれば、何かしら懸命に学びながら充実して生きられる。
 
 そしてライフワークだって、途中で変わることがあるし、
変わらなくても途中でくたびれた時は休んだり、
しばらくず〜っと、エネルギー低い活動のままだったりする時だってあると思う。

 だからそういう結果ばかりを追いかけて一喜一憂してると、
何か大切なことを見失っていくような気がしたりするのです。

 いろいろなユニット・人たちのライブの追っかけをしていると
それぞれの舞台は調子いい時も悪い時もある。
 でも、不思議と悪い時にも「エネルギーの低い時」独特の良さ・味わいがあって
なかなか得がたい魅力がありました。
 だから長い一生、長い目で自分のしてることの意味をみつけていけるように、
どっしり構えて生きていけばいいのだと、教えられた気がします。

 太宰治は極端な例ですが、そうでなくても、
若い頃に「長生きしようなんて全然思ったことなかった」という人が
多いと聞きます。ごく普通の生活選んできた人たちでも。

 古いドルショック・オイルショックから始って、不況のサイクルは巡ってくるし、
素敵な良いことも沢山世の中にあるけれど、同時に大変なことも沢山ありますよね。
 生きてても楽しいことばかりとは限らない。
 長生きしたいなんて、なかなか仙人でもない限り思えないですよね。

 しかし「長く生きるつもりはない」と、とかく誰でもどっか無責任な生き方になってしまう。
 その意識の積み重ねが、地球環境をこ〜んなめちゃくちゃにしたんじゃないかな〜と、
思ってしまうのです。
 
 そう思うのは自分にもそういう無責任さがたっぷりあったから、
この年になって急に反省してそう思っているのもあるのですね。
 
 刹那的にお風呂にお湯をなみなみと満たして入りたくなったり、
刹那的に冷蔵庫の扉を何回も何回も開け閉めしたり、
電気をあちこち派手につけまくったり、、
刹那的に.........、刹那的に.......。

 ただ結果として早死にしてしまう人は沢山いますよね。
とても悲しいことですし、それは別に自分で命を縮ぢめようとした訳でないので
ここでは関係ないです。

(また不可抗力の早死でなくても
とても苦痛等が大きくて治らない病気等の場合は、延命治療されたくないし、
安楽死させてほしいし、それは許されてもいいのではないか!!と個人的には思っています)

 詩人の中原中也も早死にしていまいましたが、
彼は晩年の作品で「神様に長生きしたいと祈りました」と書いていました。
 彼のことを良く分かっている訳ではないですが、
素晴らしい詩を書いた以外には薄幸だった彼が、
それにもめげず心穏やかになって、生きてることを肯定的に思えるようになったのかなぁ、
と思いました。

 日々を楽しく生きてる人でも、なかなか長生きしたいとまでは思えないですよね。
きっとそう思えたら、多分「悟り」とかそういう境地に近づいていけるような気がしました。
(不信心者のワタシには良く分かりませんが)

 井上さんのCDの曲名をダシにして、
長々変なことを書いてしまって失礼致します。
 




(C)