インド古典のオールナイトコンサートであり祝祭の「ザンギートメーラ」

「ザンギートメーラ」のレポートはこのページの真中の方から始まります。




 
レポートを書かれた田上氏について

 崑崙舎は三重県伊勢山の上にあります。
舎主の田上一彦氏は素晴らしい研究者・知識人であり、冒険家であり、宗教家であります。
 
 待ち合わせて講演会の会場までご一緒に歩いて頂いたことがありますが、
その時とても印象に残ったのは身のこなしでした。
 
 ごく普通の服装、穏やかな表情で話しをされる方なのですが、
歩きながら田上さんが何かに注意を引かれて目線をそちらにやるとき、
同時にすでに身体をそちらの方へかすかに向けて踏み出しているのですね。無意識に。
 別に落ち着きがないのでなく、ごく普通の自然な状態で。

 その身のこなしが、この人普通の人じゃないなぁ、と思った最初の瞬間でした。

 田上さんは,20才の頃、黒テントのフリージャズのミュージシャンをしておられました。
そこの興行主に誘われて海外公演の話があり.........それからいろいろなことがあって、
二十年にも渡る世界の放浪を始めました。
 帰国後は崑崙舎の主であり、神道の他世界の宗教学に通じた神主さんであり、
考古学の関係で学校の講師をなさっていたり、
またチベットの仮面、インド国外では最大級の石像、チベット密教美術品等
放浪中に集めた博物館並みの膨大な考古学的コレクションをこれから整理して生かそうとしています。
 
 音楽は黒テントの後はなさらず、現在は学究の徒、自然農法の農業、執筆、
そして手を焼かれている貴重なコレクションの整理......。

 ザンギートメーラは、崑崙舎が「芸能を神様に奉納する」ためになされるお祭りです。
 田上さんの崑崙舎では、単にインド古典の音楽を愛好するためなく、
こういう祝祭を通して、現代文明が失いつつある数々の宝物の存在を思い出してほしいこと、
 行き詰まった合理主義社会のつくった文明の過ちに気づいてほしいこと、
 そして人類が破壊された自然環境を取り戻して、あるべき本来の姿を模索していくことを願っています。

田上一彦氏HP

 出演者の方々はたまたま皆さん北海道によく来られる方が多いです。

 またズ−ルバハ−ルの南澤さんはシタール演奏者としても有名です。

 古典楽器の素晴らしさを、アコースティック楽器の演奏ならではの感動が
舎主の田上氏によって、独特の観点から綴られています。

以下は北海道にご縁の深い、井上憲司さんと南澤靖浩さんの記事です。


第三回ザンギートメーラ (2000年8月5・6日)


シタール(井上憲司)、タブラ (逆瀬川健二)、タンプーラ (中村徳子)
 
夜明けのラーガは、日本では演奏されることはありません。夜明けにしか演奏できないからです。

 井上憲司は、この日のために毎日修練して臨んでくれました。
 その姿勢こそが信仰なのです。わたしたちが知らない本来の信仰心であります。  
 自然と一体化したラーガを目の当たりにされた方々は幸せものです。
刻々と変化してゆく夜明けの中、目を閉じれば時間は消滅し、
再びまなこを開くともう先ほどとは明るさが違っています。

 ヒグラシの声との応答、風の答え、そして、崑崙舍の傍らでは、演奏の急所で、
演奏に合わせるかのように朝顔が開いてゆくのを目撃した果報者もおりました。
 照明や音響のスタッフの中には、演奏の時と腕時計の時間との違いを
何度も目をこすりながら確認したと述懐しています。時間などないのです。

 各自がそれぞれの時間を費やしているのです。真摯な芸能からは多くのことを私たちに教えてくれるのです。
 自然との一体感を多くの者が語っていますが、そんなものは筆先の遊びです。自然との一体感。
 ザンギート・メーラの参加者のみに許されたこの至福の時間は、
数十年の人間生活の中でも希有のものです。そのことを深く実感して下さい。
 演奏者の熟練した芸はもちろんですが、時と場と集まった人々、
そして降臨した神々というすべてが揃わなければ、実現することは不可能な「時」でした。  

 人はほんとうに感動すると、フリーズしてしまいます。
演奏が終了しても私たちは微動だにすることができませんでした。
愛想の拍手もできなかったのです。音の奔流に完璧なまでに翻弄された私たち。
緊張感がゆっくりとひいてゆく沈黙。ゆっくりと吹き上げてくるかのような感動。歓喜。
それは演奏者冥利に尽きる瞬間でもあります。
ありがとう。
 
スールバハール(南澤靖浩)、パカワジ (桂まり子)
 サンギート・メーラの締めくくりは、巨大な楽器スールバハールでした。
インドでもマイナーな楽器で、演奏されることもまれです。
この楽器は南澤靖浩の腕と指の長さに合わせて作られたものです。
当然、彼以外に、日本人でこの巨大な楽器を弾きこなせるものはいません。
 その超然として遙かな高みから、
俗の時間を睥睨するかのようなゆったりとした一音、一音に、
さきほどまでの絢爛たる音の記憶が浮かび上がってきます。
 
 古代中国の賢人は「大音に声なし」と喝破しました。
宇宙に充満する自然の偉大な声、音を、私たちは普段聞くことができないのです。
 それを聞くためには長い準備が必要でした。それは宗教的な修行のようなものから、
いろんな形で伝えられてきました。
 しかし、私たちはこうして昨夜からの朦朧とした時間の経過を通して、
ようやく自然の音を聞くことを許されたのです。
スールバハールの音と音の長い余韻の合間に、自然の音を確認したのです。
 人耳では聴くことのできない自然の音を。
 南澤氏は、アンコールに応えることができないほど全てを出し切ってくれました。
腕と指が動かなかったのです。
 本人も、生涯で最高の演奏でしたともらしました。
 「先のことなど考えることなく、この瞬間に全てを出しきる」という言葉にすれば教訓的に聞こえることも、
こうした演奏を目の当たりにすることで、魂に刻印された感動は生涯消えることはありません。




 

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