N’DANA

 アフリカ音楽のタイコユニット
渡島地方を拠点に、今は本州全国での活躍の方が多い。

 この数での男だけのタイコ演奏の迫力は最高!!
地味派手な盛り上がり!!!!

 今のメンバーになってから、演奏も表情もそれぞれの雰囲気が強まって
「元気ノリノリ」だけでない、アヤシイ感じの魅力も+++。
 
 このユニットの場合は、くつろいでそれぞれ好きに遠慮なく自分を出してる時が
全体でいい演奏になってる感じがしました。
二人とも自制心強過ぎる感じだからかなぁ。
 
 ネィティブのアフリカ人のタイコの演奏は確か技術的にずば抜けて素晴らしいのですが、
アフリカの灼熱の大地の過酷さに拮抗するように、タイコも酷烈な演奏過ぎて、
私はちょっと抵抗あるのです。
全力で最高に激しく叩く時でも、N’DANAのは微妙に違ってて。

 だから日本人の、N’DANAのアフリカ音楽の方が好きです。
編集部だけでなく、他にもそういう声アリ。
 
 絶好調の時は天から何かが降りて来るような素晴らしい演奏。
 
 二人で叩いているのを聴いていると客席の私達も他のことがどうでも良くなり、
音楽を聴くだけの存在になり、
ただこの瞬間が終わらずにずっと続くことだけを願ってしまう。
 そういうヤミツキ感があります。

(神官祝祭系の、何かを呼び出す演奏だからでしょうか)

 人気者のN’DANAのライブ、私は動きたくなる衝動を抑えてじっとして聴いているのが好き。
音楽を浴びて
 でもそれと逆に素直に踊りまくる人たちも多し。
 いつも沢山のダンサーたちが会場にひしめいて、ライブの熱がまた上がります。

木村マサト ・優斗さん (MASATO)

 コンガ奏者(教室もやってます)バタドラム奏者

 忘れない、N.Yから帰国して最初の彼のライブ出演。
 あのスタイリッシュでクールなコンガの演奏のすごさを。
 一人でアメリカに渡って長年音楽修業ひと筋でがんばって来た人。
ご本人は地味・温か系ですごく落ち着いた印象。苦労沢山して人柄も磨かれた感じの人。
私服もセンス良し。

 彼のコンガを聴きながら、N.Yがどういう所がどう所か初めて実感した気がしました。
人種のるつぼと言われ、演奏家の層の厚いN.Yは誰よりも際立つ、ということを
この人に要求し続けたのだと思った。
 キタナイことする訳じゃない、ひとの足引っ張るわけでもない、
 (そういうことすると音楽に出るので、する人少ないと思いますが。音楽に限らず)
 
 その演奏が人と違って個性的で刺激的で洗練されていること、
そして演奏技術を最高以上に高めようとし続けること。
 良くも悪くもN.Yはそういう音楽を集めるのだと思った。

 打楽器好きの私にはジャンルを越えて、ヨダレ出る程素晴らしい演奏でしたね。
 手で叩くことも、スティックを使うこともあるけれど、
手の時は、私は客席で身を乗り出してしまいます。

 その後正式に当時もう有名だった山北紀彦さん達と一緒に
N’DANAを結成。
 
 N’DANAに入ってN’DANA演出の服装や演奏、トークに変わりましたが、
打楽器好きを釘付けにするタイコ演奏は相変わらず素晴らしいです。

 そしてN’DANA入ったらまたN’DANAの良さを吸収して少し変化した、
彼の素晴らしさをまた感じました。

 最近あまり体調の良くなさそうな時、彼がコンガを叩くのを観ました。
 演奏が下手だった訳でないのですが、不思議とミュージシャンとしてでなく、
個人としての彼の素顔のようなものが少し出てた気がしました。
  見えたのは、彼がひたすらコンガを叩いている姿。
 
 「学ぶべきことは、このコンガの中に全部あったんだなぁ」と
教えられた気がしました。
 楽器の演奏のことだけでなく、他のいろいろなことも。
 誰でももし、そういう気持ちがあればそうだし、
人によってはタイコでなくて、別のものを通してであっても。

1984年ジャズドラマーを目指してN.Yに。
ドン・チェリービリー・バングパット・メセニー
D.D・ジャクソン等との数々のジャズメンと
共演やグループ活動。
ジャズの後、キューバのストリートミュージックやルンバと出会い、アフロキューバ音楽に魅せられ、西アフリカを起源とする
コンガやバタドラム音楽を。

1999年より主に山北紀彦氏と演奏活動に入る。

木村優斗さんブログ








山北紀彦さん

 モスバーガの奨学金でアフリカ留学した話は有名。
 まだ一人で演奏されていた頃からHappy soundで
全国にファン多し。

 愛嬌一杯・温ったか面白いボーカルと胸のすくタイコは、
どこでも引っ張りダコの人気です。

 山北さんという人は普段は見た目は
「旧制高校の高下駄の、穏やかな優しい先輩」風の雰囲気であります。
 
 そしてライブでは一転して「全部捨てて、キテル感じ」(最高)でした。
 
 そしてMASATOさんが来てからもずっとタイコ一筋。
元々十分上手い方でしたが、
なおまだコツコツじりじり腕を上げてきていることもスゴイと思う。
 
 独特の大地の土を感じさせるボーカルの良さと存在感、太鼓、、
作詩作曲の良さ、お人柄にファン多し。
 器も大きく、地味な顔立ちですがなぜか人目を引く存在感のある人です。


 ただ、二人とも元気な時とそうでもない時の楽差が
ちょっと微妙にあるかなぁ。(誰でもそうですが)

単身でカメルーン共和国を訪問。帰国後北海道のカバノキとエゾシカの皮で作った太鼓で演奏活動開始。
1999年からプロ活動に入り、2000年から2002年まで
北海道アフリカネットワーク主催で、アフリカ人音楽家と共に
毎夏ツアーを。
アイヌ・フュージョンのミュージシャンにして、
樺太アイヌ伝統楽器のトンコリ奏者のOKI氏や、
モンゴル音楽の嵯峨治彦氏(booxbox)や、
南米音楽の福井岳郎氏、和太鼓楽団ひのき屋や、遠藤ミチロウ氏
との共演も多し。

最近は自作太鼓のほかに、ジンバブエの親指ピアノのムビラや
自作の木琴パラフォンを演奏。

また札幌の演奏会場には阿部さん、今田さんやジンベクラブ主宰の
ジンベ奏者飯田知樹氏の教室の演奏&ダンスの生徒さん等を
はじめ素敵なダンサー達が大勢詰めかけて、踊ってくれます。
(阿部さんは一人で、N’DANAとの素晴らしいコラボもあり)

後日追記
 ◆2004年12月中旬、ここで久しぶりにまた聴けました。
別のミュージシャンがメインのコンサートツアーのメンバーとして彼らが。
 今回はメインでないので抑えた演奏、でも変わらぬN’DANAのサウンドであり
それでいてまた一段と腕をあげ、表情にもゆとりと
魅力がまた+++でありました。
 2人ともバックに回っても、立派だったですね。
 音量・旋律といい表情といい、メインの人を引き立てながらでもひたむきに一つの音楽を
つくっていけるゆとりを感じる大人の演奏でした。

 MASATOさんは今回はドラムスティックが中心の演奏。
いつもは手の演奏の方ばかりに気がいった私でしたが、
今回は彼がスティックを使う場合の演奏のすごさをみせてもらいましたね。

 彼は多分前よりずっと上手くなったのかもしれない。
 例えが妙ですがスティックを使う時「腕の立つ人が刀で切りつけるとき」に似た「気」、
でもそれが決して「ものや人を切る」殺気にならず、
タイコと一体になる音の波動に変換される感じ。清廉な迫力。
 
 音楽のことはよく分らないですが、
彼はもしかしてスティックでむだな場所を叩かなくなった、
本当に必要な部分だけを狂いなく叩き始めたのかもしれないとさえ思った。
(タイコにむだな場所があるなどと考えたこともないのですが、今回の演奏でそう感じたのです)
 そして手の時と同じに、
テンポが遅れる訳でないのに演奏中一瞬スティックが空中で静止したように見えることが
何度もあります。
 
 山北さんの音楽はMASATOさんとまた微妙に違う良さ素晴らしさですよね。
情感豊かでおおらかな楽しい波動。今回その演奏はますます熟達、音楽にも表情にも
彼本来のつやが出た感じ。
個性一杯の山北サウンド、そのボーカルやタイコは周りの人間をまたハッピーにしてくれました。

 「人間がハッピーであるのに理屈はいらない」ことを、
彼は自分の音楽活動を通して全国に伝道して回っている気さえしますね。
 「山北さんは人間だし、日本男子だし、タイコばかり」。誰にはばかることもなし。
 シンプルな日々の中で更に増してきた表現力・人間味の引力にまた引き寄せられマシタ。
 
 MASATOさんと山北さんの演奏が一つになると、
絶好調の時は客席は金しばり状態。最高に2人の演奏はテンポもぴったり。

 このテンポという点でいうと、音のリズムをカウントする以前の呼吸の、
さらに前段階みたいな所にある演奏する人の動きを開始するための脳の信号、
「ON」と「OFF」(二進表のコンピューターのしくみ、みたいな例えでスミマセン)
が2人はもしかしてちょっと違うのかもしれません。
 だからそれぞれの良さがある。


後日追記
2005年7月

N’DANAのライブに行こうと決めると、
いつも気持ちがちょっとハイになります。
でも、あれですね、
あまり聴く自分が演奏に「飢えている」状態だと
どうも「良い舞台鑑賞」は出来ないような気がします。

打楽器好きの私は、もう出だしの曲が始まると内心は
「Give me」だの「早く」だの、
進駐軍にチョコレートをねだる日本人さながらに、
ひもじい心持ちで、自分の好きなような「演奏部分」が
始まるのを求めてしまいます。
(やはり私は、激しく叩くときが好き)

でも演奏家には、やはり「その日の予定している種類の演奏」
があるので心静かに聴かないとダメですね。

又別の意味で困ったことがあります。
N’DANAに限らず、ユニット組んでする演奏のときは
全体を聴くと同時に、参加している演奏家個人それぞれの演奏を
楽しみにして聴いています。
その日によって、メインの楽器は違うことがありますが
それでも全員それぞれの演奏が楽しみ。

で、ここに「飢えた状態」で会場に入ると、
たまたま「聴きたい演奏家」のが、控えめ抑え目だったりすると
勝手に欲求不満になって、逆恨みまでしたくなったり。
でもやはりその日の編成とか、メインの楽器はあるので
これは客席サイドの私が悪い聴き方なのですね。(はは)

まあでも例えば「メインの歌手とそのバックバンド」というので
ない限りは、全員の見せ場が多少ある方が客席サイドとしては
不満が少なく、無難な気がします。
その時々の、各一人づつの演奏家の良さを見せる場面が
多少あるとやはり嬉しい。

メインかどうかで見せ場の多少はあると思いますが、、
それでも参加演奏家全員各自の「その時の最高の良さ」部分を
それぞれ、ちょっとでも客席サイドは感じたい。

一つの曲の調和、曲想が壊れたら台なしですが、
そうでなければ、何かこうその日のプログラムに応じて、
上手に見せ場を配分してあると、
すごく得したような気分のライブになったりします。

N’DANAに限らず息の長い、活動歴の長いユニットは、
気のせいかこれがとても上手いような気がしています。
(それだけ難しいものなのだと思います)


恥ずかしいことですが、ようやっと私は彼らの演奏に
全然「シット」しないでいられるようになりました。
(何て不遜なんだ)

私は楽器はとても下手だし、又一切演奏しないのですが
それでもどれか選ぶとすると、「自分の楽器」になるのは
打楽器だと思っています。

(リズム音痴だけど、一時間位叩いているとき
怖い位夢中になれたから。本当に引き込まれていったのです。
下手ながら努力し続ければ、その後少なくとも「横好き」の
楽しい趣味になるとは思うのですが
諸事情で、友人や職場でのカラオケ(下手な)以外の音楽は
しないと決めました。)

私は昔、独断と偏見で思ったことがあるのです。
それは「画家は、画家にしか惚れない」ということ。
人は、同じことをしている人にしか、本当は惚れない。

他の違うことしている人には、大いに憧れも尊敬もするのですが
でも、心底惚れるのは同業者しかないということ。
でもそれは「恋愛」というのとは又別だと思います。
恋愛の「惚れる」っていうのより、もっと息苦しい根深いカンジ。
そして恋愛と両方が混じる場合だってあって、
これは一般に結構しんどい関係になりがちだとも思います。
(例外もあるでしょうが)

私が一番楽しんで聴けるのは「弦楽器」だと思います。
でもやはり「金しばり」「憎い」「惚れる」のは、
打楽器に対してです。
このドロドロとした部分だけをクローズアップしましたが、
実際は、ひどい時でも「大ファン度97%」「シット度3%」位
です。
でも今はそれが抜けて、「大ファン度100%」に。

プロセスは、無邪気に感動「大ファン」→
「大なり小なりシット混じる」
→「憎みつつ愛す」→つき抜けて、「晴れ晴れと大ファン」。
(これって何を鑑賞していても、多少はあるプロセスのような
気がします。
大抵の場合、ちょっとよぎって終わりですが、
打楽器の場合ちょっとプロセス長め)

但しこの「シット」とか「憎みつつ愛す」とかは、
完全に自分サイドの問題、勝手なので
相手に迷惑をかけないように、心の中だけにしないとダメですね。

初めて山北さんを聴いたときは
最初は無邪気にファンだったのですが
不遜にも、傲慢にも、二回目辺りから
ちょっと微妙に複雑な気持ちになり、
木村正人さんが加わったときも、やはり同様。

情けない現象だったけど、でもこれも何となく自分のプロセスを
把握できた後では、何となく良い勉強だったと思います。
何によらず、音楽以外でもこいうことあるし。

打楽器は一般に「伴奏楽器」的な楽器になりがちです。
楽器の中では、一番原始的かもしれない。
音程は多少あっても(プロにはもっと聴こえているのかも)、
はっきり分かるのはリズムだけだから、
感情的な表現力は、他の楽器に比べると
本来はあまりないものです。

でもその制限ゆえに、人の根源的な本能をゆさぶるし
ストィックなものにだけ出る種類の、極上の派手さがあるし、
リズムの奥底の真髄のようなものに、生物に組み込まれた真理や、
精神性が高まって、何かを求めて立ち昇っていくこと等を
目の当たりにさせてもらえる気がします。

打楽器に限らす、ある種の演奏が極まると
やはり「祈り」「神への奉納」という神聖な目的が
音楽にはあるそうですが、
そういうのを理解しやすい打楽器ユニットが
私にとってはN’DANAでした。

アフリカ音楽にはそういう曲が多くて、
彼らはそういう解説をしながら、演奏してくれるのですが
私がそれを感じ、多少なりとも理解出来るのは、
別に言葉で解説してくれたからでなく、
その曲が祝祭用の音楽かどうかということでもなく、

何の曲の時であっても
「ただ二人の息がぴったり合って、
しかも同時に互いに抑え合わないで、自由に演奏が
最高に極まっている時の数分間」だったりします。
そうあの「何かが降りてくるような演奏」の時。

言葉も、旋律というのもなくて、
リズムだけで何かが極まっていくとき。

ライブハウスの時のアットホームな、
人間的な演奏の時もいいですが
会場の大小に関わらず、コンサート(?)という感じの
「舞台」がはっきりした時の方が
こういう演奏になりやすい気がします。
(全部観てないので分からないけど)

そろそろ強く思うのは、
そろそろ「ソロ」が聴きたいということです。
助っ人と一緒でもいいから、
二人ともそれぞれの「ソロ」ライブで
自分の世界を思いっきり出してほしいと思いました。

これはN’DANAに限らず他のユニットも
長く聴いているとやはり
同様のことを思う時期があります。
但しこれは、「ソロもやってほしい」というだけで、
ユニット活動を止めてほしいということとは、全然違います。

N’DANAも、ぜひ時にはソロをやってほしいです。
ぜひぜひぜひ。

1999年あたりに彼らの演奏を聴いてから、
彼らはほぼずーっとスケジュールがびっしりで、
演奏の旅を続けていることが、多かったようです。
そのことに、何となく感慨を覚えました。

「あれから彼らはずっと、旅をし続けていたんだなぁ」って。
うらやましいような気もしますが、大変なことですよね。

音楽家ってタフでないと、出来ないですね。
身体のことだけでなく、精神的にも。

お二人ともすごいのは、楽器を次々簡単に作ってしまう
ことですね。それであんないい音が出てしまうのですね。
素晴らしいことです。

木村優斗さん(マサト・MASATO)さん

私はついにこのライブで「God hand」と
握手してしまいました。
God handとは、木村優斗さんの演奏中の
大きな手のことですね。
そう思ったのは、アメリカから帰国後最初のライブの時からです。
その後も、極まると彼の演奏する手を私はそう心の中で呼びます。

N’DANAに限らず、めったにそういうことはないのですが
このライブは演奏者の他に、客席から飛び入り参加が結構あって
楽しく盛り上がった、アットホームなライブだったのです。
その余韻で、山北さんも木村さんも最後は客席みんなと握手して
回ったし、帰りもそうでした。それで私とも。
(しかしライブの後で握手するときは、
別に普通の乾いたカンジの大きな人間の手)

まあ「God hand」と呼びたくなる手は
他の楽器の演奏家にも使われる言葉だし、
音楽家だけでなく医療関係やカイロプラテックや整骨、
裁縫、工芸等どの分野でも使われる言葉ですね。

分野は違っても一つ共通点は、「死ぬほど精進した人間にだけ、
天が、神様が貸してくれる手」ということなのかもしれない。
何によらずこういうものの悲しさは、
精進を怠ると天が「返せ」と言ってくる所かも。(はは)

あ、これの「足バージョン」もあるし、
何でも人間には何によらず精進次第では「驚異の世界」という
ものが広がっているようです。

私は帰国最初のライブ以来、行けるときは彼のライブに行くのを
心から楽しみにしていました。
何だかめぐり合わせが悪くて、行けないこともあったし、
いろいろなユニットでの、編成の違う演奏が多くて、
それはそれで素晴らしかったけど、不満がたまっていたのです。
1999年から6年間の長い時間に。

そして、この日のライブだったので私は又本当に演奏に
「Give me」状態。
だから木村さんの顔を最初に見たときに、思わず叫びたくなった。
「もう、借りてきたネコみたいな、お行儀のいいあなたは沢山よ」と。

(やはり、しばらく聴かないで「ひもじい状態」だと、
こういう失礼で
分かってないくせに、失礼でワガママな言い草になるのですね。
やはり心を静かにして、瞑想し、我欲を捨てて聴かないと)
(くすん)

木村優斗さんは、極まると本当にGod hand、
何かが降りてくるようなすごい演奏を聴かせてくれるときが
あります。

種類としては、すごさは「クリア」な感じのすごさです。
宗教的な、祝祭用の音楽、儀式用の音楽には、
例えば聴き手をトランス状態に導くような演奏があると
言われます。
打楽器ってリズムを取るから、
弾き方によってはトランス状態をもたらしやすいかもしれないです。でも、木村さん演奏は、それとは又全然違います。

打楽器に限らず、トランス状態をもたらすような
そういう演奏の仕方があり、
それはそれで大変難しい、素晴らしい別ジャンルの演奏だと
思います。
(なかなか出来ないことですよね)

ただ彼の演奏は、極まっていっても私を決してトランス状態にしないです。
私は彼の刻むリズム、音楽を聴きながら「金しばり」、
「目は釘づけ」、どうにかなりそうなほど気が高ぶっているのですが、でも頭の芯は醒めわたっていて、正気のまま固まって、
ひたすら引き上げられて、高まっていくカンジがします。
この状態めったにないのですが、

本当に「ただ演奏を聴くだけになり、この瞬間がいつまでも
続くことを願う」という、あれになるのです。

天上の光をかすかに感じるようなときって、N’DANAの愛する
打楽器と稲妻の神様「ヨルバの神」って、本当にいるのかも?って
思ってしまいます。
打楽器に限らず、音楽、アートってこういう種類の感覚を
実際にどういうことか教えてくれる素晴らしいものだと思います。

山北さんはアフリカ人と生活していた素晴らしい体験がありますが、
木村さんはアメリカ等でいろいろな音楽の方と演奏した
素晴らしい世界を持っていると思います。
私はN’DANAでのような演奏ジャンルが好きなのですが、
でも木村さんの自由で、のびのびご自身の世界をこれから出していってほしいと思ってしまいます。(ソロ活動も!!!)

あ、と初めてこの日観たダンスも良かったです。
ミュージシャンって皆さん上手いのでしょうか?
あと歌も、よく通るすがすがしい声で上手いです。

最初のライブの時から、ちょっと変わっていると思ったのは、
彼は音楽に対してどこか、少しだけとても慎み深い修道士のような態度がみられる方でした。
楽器と共に、心も音楽も精進の日々というカンジ。

全般に飾り気もなくて、見ててどっか損することも多い人だなぁ、
という印象があります。無防備で純粋な分、傷つけられることも
あったのかも。
でも、大人のある程度確立された、成熟されたお人柄を
感じる方です。
いろいろなこと、いいこともあれば、いやなことも、
トライ&エラーを繰り返して、自分を成長させて来られたのだと
思います。

外見は若いのですが、彼の年齢を聞いて驚きました。
もっと年上に思えていたから。どっか老成した所のある方です。

(まあ、でもそうでない部分も人間だからその時その場で
いろいろあるとは思います。腹も立つだろうし、いろいろ)

人に気を使うことも多すぎて、結構内面はストレスたまったり、
不完全燃焼気味になったりしないかなぁ?と
外野は思うことが多いのですが、本当の所はわからないです。

ちなみに、優斗さんは江差町の知的障害者更正施設
「あすなろ学園」でパーカッションバンドの指導もしています!

★2005年8月 
今回は珍しい、木村優斗さんのジャズドラムでした。
関西の市川修さんと北海道の清新 精鋭リズムセッション
市川修さんは、北海道初めてのツアーですが
木村正人さんの高校の大先輩。

今回四人はぶっつけ、初めての演奏だったそうですが、
息が合って、とてもそうは思えなかったのは
市川さんの大らかなお人柄かもしれないと、思いました。

恥ずかしながら、私はほとんどライブのジャズを聴いたことがありません。
ただ、ジャズは高校生の頃、ジャズ喫茶というのが幾つかあって
そこに時々一人で通っていたことがあります。別にジャズが特に好きだった
訳でなく、大人のいる、日常と違う場所に座ってみたかったからですね。(あ、青春)
ジャズは私にとって嫌いじゃないけど、何となく「私を緊張させる」音楽だと
今も思っています。それが悪い気持ちでないだけで。

さて「女子高生」はすぐ年を取り、その後は友達の出るビッグバンドのジャズコンサートに
行ったり、レコードを何枚か買った位で後は縁のない音楽でした。

でも今回のライブはすごく良かったです。
思わず「うわぁ〜、やるなぁ〜」と、うなる程皆さん素晴らしく上手い方たちでしたし、
ほんとうに「どっぷりミュージシャン」という方たちのメンバーで
音楽だけでなく、そういう空気にもひたれて嬉しかったです。
特に前半(二曲目から特に)、最高でした。

そして今回のライブで初めてジャズってどういう音楽なのか、
ちょっと分かった気になりました。
知識として知ってたのは「クラシックより技術的に演奏が難しい音楽」という
ことでした。他民族音楽にもジャズ出身の人もちらほらいますね。
又「ファンがとても多いジャンルの音楽」ということ。

今回のライブ(モダンジャズ)がとても素晴らしかったので、思ったことは
「ジャズって、それぞれが出来るだけ自由にやりながら、
他の楽器とからむためにある音楽」みたいだなぁ、ということ。
「他の楽器とからむ」ことにかけては、ジャズ程すごい音楽は
ないかも?と思えた程。そのために出来た音楽みたいだった。
クラシックは一糸乱れぬ見事さはあるけど、「からむ」というのと又
違うと思う。
個人的には、私は民族音楽が好きなのですが、今日はジャズの楽しさを
沢山教えてもらえました。

(とゆっても、自分で勝手にそう思っただけで、
ジャズのことは本当に分からないです。くすん)

京都の市川修さんは、何度も渡米して向こうの沢山のジャズミュージシャンと
一緒に住み込んで、又広く共演しています。

肝が座っているというか、巧みにリードを取って、
他のメンバーの演奏の熱を更に上げ、又それを楽しんでいるカンジ。
ピアノも歌も、驚くほど上手いですが、
特にサックスフォンにはうっとり。
オリジナル曲も、とても素晴らしいです。
55才は、心にゆとりのある年頃なのでしょうか?
リーダーシップ、演奏、パフォーマンス、どれひとつとっても
充実されていました。

瀬尾高志さんは、正人さんとは何度も共演経験あり。
クラシック出身で、後にキューバに渡りロサンゼルスやニューヨーク、
ニューオリンズでセッションを重ねる。
彼はジャズだけでなく、他のジャンルからも共演引っ張りだこのベーシスト
ですが、今回はコントラバスで。
いや〜ぁ、キュートというか素敵というか、特に前半は最高でした。

佐々木伸彦さんは、札幌を拠点にジャズギターで、ご自分のトリオで活動。
貴公子のように品のいい、共演者にとても気を使って演奏する方で、
裏に徹しての今回の出演だったと思います。

そして木村正人さんの、的確なジャズドラム。
ニューヨークで最初はジャズドラマーを志しただけあって、
本当に場に慣れているカンジがしました。
私は他民族音楽の時の彼の大ファンなので、今回はちょっと畑が違いましたが
精緻で知性的なカンジの、彼のジャズドラムも又素晴らしいと思いました。



山北紀彦さん

彼は本当にじりじりと、ますます腕を上げたカンジがあります。
本当に頭が下がります。

あまり又演奏に「飢えている」と、私はまたワガママに、
発想が乱暴になっていきますね。
彼は最初のころ、演奏家としてすごく「キテる」カンジがして、
そういう所が最高に好きでした。
でもしばらくすると、何か誰か言われたのか、思うところがあったのか、
割と生真面目な、冷静な、表情をくずさなくなりました。

演奏は段々上達して、私は楽しかったですが、
でも段々、不満がたまってきて、又思ってしまったのです。
「遠慮しないで「キテてて」ほしい、
そしてもう「キテる」というより「イッテる」という風に
なってほしい。」と。(失礼いたしました)

これは心の中にだけで思っていたのことなのですが、
嬉しいことに今回のライブで、山北さんは本当に
そういうカンジになっていました。

なにかこう、人間離れした、でも動物ではない、
何かリズムと踊りに取り込まれたような、
そういうものの権化のような
「向こうにイッテるヒト」に、だんだんなってきてしまっている。

怖いような、そういう迫力ある部分と、本来の理性的で温かい部分が同じ人間の中で、出入りして、それがすごく好きであります。

山北さんは、声も独特のつやがあり、
昔から演奏もHANAのある方だと思います。
山北さんのボーカルは、本当に魅力たっぷりだし、
踊りも入ったパフォーマンスも磨きがかかったカンジがします。

これからもますます楽しみですが、
そのカリスマ的なところや、外交力のあるところを生かして
音楽に限らず、何か国際的な活動をしていくことも向いているカンジが
しました。
(あ、でも音楽聴けなくなるから個人的には、イヤですが)

 
参照    
山北紀彦HP

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