一般客席の聴く音楽 by 「森の休日社」編集部

a.「他民族音楽家のライブ」にハマった理由

-目次-

1. 私は昔、民族音楽に全然興味がなかった。

2. きっかけは「超睡眠不足」と「騒音とストレス」で心身ボロボロだったこと

3. 環境良くなった後も、やはりハマったままだった。
  年々なぜか演奏が上手くなったり、いい味が出てくるライブ

4. 「Work song」の復活  -現代、人間の働く環境は再び辛くなってきている-

5. ひとくちに「民族音楽」と言っても....。
  人種が交じり合って完成した音楽スタイル

6. 他民族音楽は、本気になる程「けもの道」の音楽ジャンル。
  日の丸にラブ!
  クラシック、ジャズに続いて「国際化」してほしい民族音楽・ワ−ルドミュ−ジック

7. オリジナリティの「使い道」の違い






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1. 私は昔、民族音楽に全然興味がなかった。

 私は昔から、民族音楽に全然興味がありませんでした。
もう、ぜ〜んぜん。

 子供の頃、周りに結構な枚数のクラシック音楽と世界の様々なネイティブ(自国の)民族音楽の
有名ミュ−ジシャンの音源を持ってる人がいて、
いつも聴こえる所でそれらがかかっていたのですが、私は全然関心がありませんでした。

 クラシックも民族音楽も、古くから沢山の人々に演奏され続け聴かれ続け、
長い年月にわたる鑑賞のふるいに耐えうる、飽きのこない丈夫な楽曲ではあることだけは、
その時教えられて分かったようには、思ったのですが....。

 素晴らしい音楽だとは思っていたけれど、AEROSMITHとかKISSとかのハードロックの方が
ず〜っと好きでした。

 しかし大人になってしばらくしてから、ある日突然民族音楽の良さに気づいたのです。

 さらにそして気づいていったのです。日本人による自国以外の他民族音楽の良さに。


2. きっかけは「超睡眠不足」と「騒音とストレス」で心身ボロボロだったこと

 それは、私が職場等の事情で心身共にシンドイ状況にいた時のことです。
5年間以上に及ぶ、「超睡眠不足の日々」と「ある種の大きなストレス」。
騒音が多く、プライバシーの少ない生活環境でじわじわと衰弱していた時のことです。

 こういう状況に強い人間も沢山いると思いますが、
ひ弱な私は、日々職場と自宅の往復で精一杯。
「もう発狂しそうだ」といつも思っていた。

 そして超睡眠不足と騒音多い環境にいる人にとっては、
「音楽」より「沈黙」がなによりぜいたくなものだったのです。

 「何もいらないから、静かなところでぐっすり眠り続けたい.....」なんていつも思っていた。

 でも結局毎日職場行ったし、ご飯もしっかり食べて、健康雑誌なんかもコマメにチェックし、
それなりには前向きに、ナントカ楽になる方法はないだろうか?と、
模索する日々でした。時々行くカイロが「最高のシアワセ」だった。

 個人差があると思いますが、そういう時「生演奏」の音楽というものを聴くのが、
段々辛くなってくるのです。

 好きなクラシック音楽でさえも最後まで会場に居ることが出来ない。
いろいろなジャンルの音楽のライブやコンサートで何回途中退場したことか。
「ウルサイ」という訳じゃなのですが、聴いていると段々辛くなってくる。

 で、音楽聴くのはヘットホン付きCDラジカセかウオークマン専門。
プライバシーの少ない環境で「外界遮断」と「音でストレス解消」するために
聴いていました。

 CDで聴いてるアーティストでも「生演奏」になると辛かった。
シンセサイザー等の機械を使った演奏は特に生の舞台ではカンベンしてほしかった。

 だから耳の奥が痛くなる程毎日音楽聴いてた割に、
音楽を本当に楽しむココロは全然なかったと思います。

 時々地下鉄などで周囲の迷惑もかまわずに、
驚くほどの大音量でウォークマンを聴いてる人いますよね。
私もああいうヒトだったのですね。(さすがに乗り物の中ではしなかったけど)
 好きな音楽聴いてるハズなのに、あまり楽しそうでないヒト達。

 (まあ、自分もそうだったから分かるけど、
そういうのは根本的に「音楽の種類」が悪いのでなく、自分の生活をナントカしないと
「鼓膜が痛む音楽鑑賞」のままなのですね。

 そしてそれは決して良い聴き方ではないけれど、
そういう音楽の聴き方のお陰でストレス解消出来て、まだ心身の負担を軽く出来る分
いいことではあるのだと思います。

 さて、そういう状態がずっと続いていたある日楽器を習っている友人達のススメ、
はっきり言って義理で「民族音楽」のライブのチケットを買いました。
彼らのお師匠筋の方々のライブ。
続けて何回か。
 どれも日本人による、他民族音楽のライブ。

 そしてその日実にしばらくぶりに、私は最後まで音楽の「ライブ」を心から楽しんで帰りました。
義理で買ったチケットに、後で感謝したのでした。

 耳に音楽がすっと入ってきて、
衰弱して、腫れたようになっていた耳を静めて音楽が通っていったのですね。
 胸のつかえが、少し楽になった感じ。

 身体の芯に溜まった疲労とストレスで、どこかいびつになっていた心の芯をゆるめて、
洗い流してくれる感じ。

 音楽はその人によって好みが違います。
 そのときの衰弱した耳の私には「打楽器の音」が一番の薬になりました。

 現代のドラムやパーカッションは耳が受けつけなくて、
一番好きなインドの古典楽器のタブラや、またアフリカの打楽器が私には合っていました。
 古典楽器や民族楽器の微妙で自然な音って、すごい薬効があったのです。

 それでも最初の頃はまだ「音楽」聴くというより、
「耳を楽にしてくれる、薬になる音を出す楽器」を求めた。
タブラの音しか聴いてなかった。タブラの音しか聴こえないという位に。

 数回その状態が続いた後、次にたまたま本州から来ていたインド古典の旋律楽器シタール
入った演奏があった。
それが「曲全体」を聴くようになった始まりでした。

やっと普通のライブ「音楽」鑑賞が出来る状態に耳がなったのですね。

 年に1〜2回の彼のシタ−ルのインド古典のライブは、
私の衰弱したココロを復活させてくれる貴重な場でもありました。
 また次にライブがあるまで聴き貯めておくように。
 他の民族音楽のライブも心身共に楽しんだり癒されたり、本当にお世話になりました。

3. 環境良くなった後も、やはりハマったままだった。
  年々なぜか演奏が上手くなったり、いい味が出てくるライブ

 こうして民族音楽のライブによって、少しづつ回復していった私は
少し出た「元気のパワー」でナントカ自分の状況を省みた。
 そうだ、私にも自分の環境を変える力があるんじゃないか?と。

 そして転職や引越し等の大変革。
 急に楽になっても、それまで衰弱した心身はすぐには戻らず不眠症気味が
続いたりしましたが、
生活に気功を取り入れたりして、段々段々元に戻っていきました。

 そしてその後もずっと民族音楽のライブは私の好きなことであり続けたのです。

 「最高の演奏は最高の音楽療法でもある」といいますが、
別に音楽療法や薬でなくても、彼らのライブ・コンサートは素晴らしいものであり続けたのです。

 別に最初に聴いた時から、彼らの演奏は十分プロのライブ演奏であり、
別に何もそれ以上のことを私は望んでいませんでした。

 ところが年単位で聴き続けると、彼らの演奏が微妙に少しづつ変化していくのです。
 
 それは洞窟で鍾乳石が出来ていくような速さに例えたいような時もあれば、
急激に変化することもあります。
 大切なのは変化することでなく、最終的にもっとも演奏者に合った楽曲・演奏スタイルを
見つけることではありますが。

 民族音楽はクラシックの音楽家と同じでスタンダードナンバー中心というか、
同じ曲を長年弾き込んでいくことが多い。

 同じ曲でもいろいろなタイプの演奏の仕方があって、
その時によって彼らもいろいろ試してみることもあります。

 又こういう演奏の仕方のタイプの違いということと別次元の、
演奏テクニック、表現力、ユニットのチームワーク等、
こういう何らかのものが年々弾き込むうちに、
ますます微妙に味が出てくるのには本当に驚かされました。

 なかなか生活費をかせぐのが大変なジャンルでもありますので、
時々は練習不足だったり、病気や怪我してたり、ライブの直前に自家用車がダメになったり等の
精神的ショックで、調子が悪いこともあります。
 
 これは他の仕事の人間でも誰にでもあることです。 
 昔、ジャズで有名なキース・ジャレットのライブ録音レコードが世界中で売れました。
タイトルは「ケルン・コンサート」つまりケルンでの公演が特別いい演奏だったからだと思います。
彼も逆の時があると思います。

 だだなじみのファンが聴くと
不思議とそういう、エネルギーの低下してる時の演奏もそれなりの独特の味わいや、
不調をカバーしょうとするユニットの人間同士のいつにない動きが見えて、
一概に面白くないライブとも言い切れないのですが。

 音楽、特に電気を使わないアコースティック楽器の演奏を始め舞踏・演劇等の舞台芸術は
ビデオやCDの媒体に記録しても、その一番微妙な良さは残すことが出来ません。

(私はライブに通っているユニット等の方のCDは必ず買いますが、それはライブ演奏を聴くのと別の良さ、
 きちんとスタジオで補正してある完璧な保存用の演奏が収めてあるから。
 
 ちなみに、不満なのはそのユニットの初期のCDに収められた曲は時が経ってももう一度新しいCDには
入れなおしてくれないこと。
時間が経って弾き込んで煮返して上手くなって味が出てるのにぃ〜。
 CDは「青りんごの」ままなんだよ))


 音楽・ダンス・演劇等舞台芸術は「その時限り」です。
だから舞台に上がるものにかかるプレッシャーはその都度並大抵のものでありませんし、
 楽器なら「腕前」を落とさないために、毎日練習が必要です。
 ダンサーはよく「一日休むと筋肉を取り戻すのに3日かかり、一週間休むと一ヶ月、一年休むと....」と
言いいます。

 その分上手くいったときの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがあります。

 こういう舞台芸術、そして更に他民族音楽はメジャーな活動はしにくく、
マスメディアにのって市場の商品として流通させる、ということの出来にくい
ジャンルの音楽と言われています。
 つまり儲かりにくい音楽。

 それを承知でこのジャンルを選ぶ人たちは、
純粋な気持ちで音楽を求める、
世間の評価もある意味では捨てるしかなかった(あきらめざるを得ないジャンル)、
心から自分の選んだ音楽を愛する意思を持った人たちです。

 ただ理解者がだんだん増えはじめて、日本も段々少しづつは状況も変化し始めてはいるようです。

 さて私は個人的に、ヒドイ生活環境から抜け出して、しばらく呆けたようだったのですが、
段々元気を回復してくるにつれて、

 今度は彼らの音楽が微妙にじりじりと上達してくるのを目の当たりにするようになりました。
音楽する人たちの「長い演奏人生」の、たまたまそういう良い時期に居合わせただけなのですが、
これは迫力ありましたし、感動しました。
 これは何年も同じユニットのライブに通わないと味わえないと思います。
 私は本当に恵まれていたと思っています。

 演奏技術は一般にある程度の所までいくと一応完成状態として、
あとは微妙な味わい、そのときの演奏のベストの表現を追求していくものらしいです。
 「これ」と思える演奏の仕方を決めたらそれを深めていく人もいれば、
時期によっていろいろトライしてみる人もいるそうです。
 
 いずれも、たとえ音楽しない聴き手にとっても本当に何かしら教えられることが多いです。
 スポーツと違って「勝ち・負け」はなく、評価も聴き手の主観による分、
幅広く奥深い楽しみ方が出来るジャンルだと思います。


 そして、悪しき環境、日々のしんどさに押しつぶされかけていた状態から解放されて初めて、
久しぶりに元気が出たのです。
 音楽は出来ないけれど、私も私のしたいことことをコツコツがんばっていきたいなぁ、と。
自分なりに出来る限りで。

 そういう意味でこの数年のライブは単に娯楽であるだけでなく、
いろいろなことを私に教えてくれた、素晴らしい人生の先輩達の時間でもあったのです。

4. 「Work song」の復活  -現代、人間の働く環境は再び辛くなってきている-

 民族音楽は何のために演奏されただろうか?

 多くの民族音楽は、人々の一日一年一生の生活のBGMでした。
芸術、娯楽、労働歌、夜の休息のひと時、宴会、冠婚葬祭の音楽.等々........。

 昔は今より文明は発達していなかたっため、手仕事部分も多く機械化も少なく、
労働は肉体的に今より重労働でした。

 人々は仕事をはかどらせ、自らを慰め励まし、能率を上げ、
そして癒され、なごみ、くつろぎ、休むためにも音楽を用いました。

 現代文明の発達は私達を過度の重労働から解放したはずなのですが.........。

 長引く不況による過酷でストレス一杯の労働環境、
電磁波疲労一杯のOAオフィス。
身体や環境に悪いのもの一杯の世の中。
 家庭の主婦も、当然社会の不安やストレスの影響を十分に受けています。

 そうです。まるで昔の人たちみたいに。
そしてまたそれとは別種の過酷さ。
 今私達の仕事、生活はとてもしんどくなってきているのではないでしょうか?


 なぜか私が身体ボロボロで疲れている時に、
唯一耳が受けつけたのが民族音楽だったことも、実は理由があったのではないでしょうか。

 一日の仕事が終わって、また休日に聴くココロと身体に染み込んでくる民族音楽に、
自分との国籍の違いはあまり感じませんでした。

 髪の色や肌の色は違っても、同じ「霊長目ヒト科」の人間を構成するDNAには共通する部分が
沢山ありますよね。
 表面的な国籍・人種の違いを越えて、音楽はその「共通部分」に響いて、
染み込んでくるのだと思います。
 だから「音楽に国境はない」のですね。


5. ひとくちに民族音楽と言っても....。
 人種が交じり合って完成した音楽スタイル

 「え〜日本人の外国民族音楽の演奏なんて外人のマネじゃないの?」と
初めて友人の義理でライブのチケットを買ったとき、私はちら、と思ったのです。

 子供の頃「ホンモノ」(ネィティブ(自国の)民族音楽の演奏聴いてたからであり、
音楽のことよく知らなかったからであり、
ストレスたまり過ぎてて、考えがイヤラシくなりがちだったからデスネ。
 
 でもその、多くの人が持っている偏見は、
彼らの音楽が好きになり興味が出ていろいろ聴いてみるうちに、
薄くなり、消えていったのでした。
 
 各国の民族音楽は独特のスタイル、
強烈な旋律やリズムを持った音楽です。
 そのスタイルは自国の音楽家だけでなく、
世界中の音楽家を魅了し続けています。

 民族音楽とはある民族(つまり作曲者)が創った、
楽曲のルールに従って出来たスタイルの音楽です。
そのルールを把握していれば、誰が演奏しても良いものです。

 あとは国籍でなく、その人がどうその曲を解釈して演奏するかです
クラシックやジャズを取りまく環境はもっとずっと進化していて、
「明らかに国籍が特定」された曲でも、誰も演奏者の国籍をハンディとみなしません。

 昔と違って現代人は世界中の音楽を常に聴きながら育ちました。
学校の音楽教育でも、自国の音楽しか聴かせないなんてことはありません。
つまり演奏する人たちも、聴く人たちも、音楽の感覚は小さい頃から開かれている、
どこの国の音楽であろうと抵抗ないような文化に取りまかれています。

 つまり日本から出たことない、純日本国籍の日本育ちの人間であっても、
生まれてから世界の音楽を、耳にして育っている。

 やはり生まれ育った国の音楽の影響が一番強くベースとしてあって、
その上で更に世界の音楽を違和感なく聴ける人がほとんどだと思います。

 
 各国の民族音楽の歴史は古いですが、それぞれの音楽が完成をみるまでの
プロセスの中に、自国以外の他民族・文化の影響が交じり合っていることが
多いです。

 つまり音楽の国境なんて、実はもろい部分があったりするのですね。

 また一つの民族音楽のスタイルの変化はこれで「完結」ということはなく、
人類の歴史が続く限り、その音楽をする人が一人でもいる限り続きます。
 楽曲スタイルもまた生きものなのですね。


 ただ、やはり幼い頃からその音楽スタイルにふれ続け、その民族楽器がそばにあり
良い師匠にもこと欠かない、ネィティブの民族音楽の音楽家達は、
圧倒的にずば抜けて上手いです。数からいっても圧倒的に。

 しかし少ないながら、
まれに血のにじむ努力で近づく他民族の音楽家達も出てきています。
 
 そういう人たちであっても、素晴らしい他民族音楽家であればある程
彼らはその楽曲スタイルを生んだ国と大切な恩師、
民族に深い心からの敬意と感謝を持ち表し続け、そしてそれは生涯変わることがありません
 
 ショパンと彼の生まれたポーランドに、
世界中のショパンのピアニスト達が敬愛を表するように、またはそれ以上に深く大きく。

 そしてそれゆえに反面「民族音楽」というと、どこかタブーという感覚があって、
それはネィティブの演奏家、音楽家だけのものだという精神的な障壁が感じられます。


「サルサ」という映画では、将来を嘱望されたクラシックの白人ピアニストが他民族音楽の
「サルサ」の虜になり、約束されたクラシック音楽での将来を捨てて、がんばり続けるのですが
このタブーの壁、偏見に苦しみます。


 今、世界の音楽家達の中でこの民族音楽のタブーの壁を意識する人たちが増えているから
こういう映画も出来たのだと思います。

 一般に民族音楽は、とても濃い強烈な旋律やリズムを持つ、個性の強い音楽ですよね。
 それはその国の人間のみならず、人種や国境を越えて世界中の多くの人に
愛されてきました。

 民族音楽とはある民族(つまり作曲者)が創った、楽曲のルールに従って出来た音楽です。
そのルールを把握していれば、誰が演奏しても良いものです。

あとは国籍でなく、その人がどうその曲を解釈して演奏するかです。

 そして世界を意識してなされる各国の(少なくとも西側諸国は教育に偏った国粋主義を採用しないので)
音楽教育で育った若い世代が各国の民族音楽を消化して、
今のワールドミュージックというジャンルにつながっていっているのだと思います。


6. 他民族音楽は、本気になる程「けもの道」の音楽ジャンル。
  日の丸にラブ!
  クラシック、ジャズに続いて「国際化」してほしい民族音楽・ワ−ルドミュ−ジック

 「すべての民族音楽はただの音楽である」ですよね。

 クラシック、ジャズではもう「国籍がはっきりした曲」の演奏でも、
演奏者の国籍を気にしなくなったように、

 民族音楽とはある民族(つまり作曲者)が創った、楽曲のルールに従って出来た音楽です。
そのルールを把握していれば、誰が演奏しても良いものです。

 民族音楽の演奏も国際化してほしいです。

 プロになって本気になればなる程、このジャンルの音楽家の人たちは「けもの道」を
歩かされます。それだけネィティブに比べると環境的にも不利で、
評価されにくい、認めてもらいにくい現状。

 ただクラシックやジャズのように、教育環境は恵まれてはいませんが、
長い目で見る温かいファン兼サポーターが沢山増えてきたらまた状況は少しづつ
好転していくかもしれません。

 クラシックだってジャズだって最初は世界の壁は厚かったと思います。

 日本の民族音楽も、数は多くありませんがぼちぼち世界で高く評価されて、
向こうでも活躍する人たちも出てきています。

 また、日本国内で素晴らしい活動をしている人たちも。

 ネィティブの民族音楽家達に比べて、初めから「偏見」持たれがちな
この他民族音楽を選んだ、強いココロで音楽を愛する彼らを、
理解して応援する人達がもっともっと増えたらいいなぁ、と思っています。

 なにせボロボロの状態の私を回復に向かわせてくれて、
元気になったら今度は、「何か私も自分のことをがんばろう!!」と
疲れたココロを復活させてくれた、素晴らしい彼らの存在を、
私はもっともっと沢山の方々に知ってもらえたら!!!と願って止みません。

 多分他民族音楽が受ける、偏見が消えたとき、
世界中の人種とか国境の壁ももっとゆるやかで、
人々の意識もより良い方向へ
さらに向かっていきやすくなるような、気がします。

 そうあることを、願って止みません。

7. オリジナリティの「使い道」の違い

 

 民族音楽とはある民族(つまり作曲者)が創った、楽曲のルールに従って出来た音楽、
ということだとも言えます。
そのルールを把握していれば、誰が演奏しても良いものです。

 あとは国籍でなく、その人がどうその曲を解釈して演奏するかです

 自分達でいろいろ新しい曲もつくって演奏もしますが、
他民族音楽の演奏家は、どちらかというと
クラシックの演奏家に似ています。
クラシックバレエや民族舞踊の舞踊家にも。

 つまり古典の名曲やスタンダードナンバーを弾き込んで、
曲の解釈、演奏にオリジナリティをそそぐ形。

 確かに自分で作詞作曲演奏全部するのは、クリエィティブだと思います。

 ですが自分で全部創ればオリジナルで、人の曲を演奏するのは
オリジナリティが少ないでしょうか?

 テレビ等を観て思うことがあります。
 自分で作詞作曲して、自分で演奏し歌うのは確かに素晴らしいことです。

 でも人のつくった曲をもらって、歌いこむ歌手の歌はオリジナリティがないでしょうか?

 前に紅白歌合戦を見ててしみじみ思ったのですが、
 「人のつくった歌」を歌う歌手の歌の、丁寧なこと、心のこもってること、大切に歌うこと、
そしてその人の歌の解釈、歌い方の個性的なこと。
 聴く方も酔いしれますね。

 意外と自分でつくった曲を歌う人は、これほど曲にのめりこんで丁寧に歌っていない場合が
多いと思います。
(それはそれでさっぱりした味があって、イイものではありますが)

 だから決して人の曲を演奏することは、オリジナリティがないと思わないです。
演奏にオリジナリティをそそいでいるのだと思います。

 民族音楽は自然の中から出来上がった、根源的でとてもシンプルな音楽です。

 音楽は、たとえば口笛だけでも人の心にしみじみ染み込む素晴らしい音楽になることがあります。
 逆にどんな複雑精巧な機械を使った演奏でも、心がこもっていなければ、
聴くほうの心も動かないし、良い音楽とは言えないですよね。

 たまたま私の個人的なボロボロ疲労生活からの回復のきっかけになってくれた
のが、民族音楽のライブでした。

 そしてそれは私にとってだけでなく、多くの疲れきった現代社会の人間の心の奥の、
長く触れられることのなかった琴線、

自分は石でもロボットでもなく、やわらかい心を持っていること、

また忘れていた自然の自分の奥底の小さな力、
自由で良き心をを思い出させてくれるものの一つであるような気がしています。

 世界中で自然にも人の心にも多くの破壊や荒廃が広がっていると言われています。
 
 何かを壊したり、悪い方に走るのはた易く簡単で、一見一時的には楽なことです。
 
 その逆は、めんどうで時に損なばからしいことのようにさえ思えることがあります。

 でも民族音楽がそうであるように細くシンプルに、自分なりに何かをつむぎ始めるのは、
楽なことではないかもしれませんが、素晴らしい時間の始まりであると思います。

 素朴な構造の楽器、シンプルな音楽ですが、
演奏する人、時と場合によっては本当に聴き手の心をゆさぶり、
人の一生、地球や宇宙について感じさせる大きな音楽になることがあります。

 しんどい時にも自分を捨てず、投げやりにならず、
人と比べずに、世間体や表面的なことにとらわれずに、
自然な心で自分を愛し、人を愛し、街を愛し、国を愛し、地球を愛し、
またすべてを大切にするココロを何とか捨てない。
 
そういう自分になっていきたいと、私が少しづつ少しづつそう思えるようになったきっかけだった、
他民族音楽家の方々のこと、沢山の方々に知ってほしいと願って止みません。


 

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