依頼原稿部門 下山康麿氏  2008年8月 アンケート


※ 寂しくなりますが、この9月末をもって、下山康麿氏は「森の休日社」を卒業されます。

目次

まえがき

「アートの道、誰もがぶつかりうること」

 

―― 受賞、プレッシャー、スランプということ――

 

下山さんアンケート回答

 

あとがき

「当時、下山さんはニート&引きこもりになるべきだったか?」


下山さんは森の休日社卒業後、とりあえずご自身のHPを持ちませんので、
ここにお写真を。


まえがき

アートの道、誰もがぶつかりうること

 

―― 受賞、プレッシャー、スランプということ――

 

 よく分かりませんが、Dr.コパによると、風水で「宝くじや懸賞に当たる」というのは、災害にあったのと同じ扱いだそうで、
厄払いをしなければならないらしいです。

 

 宝くじはともかく、何につけ「受賞」というのは、「プレッシャー」「スランプ」と背中合わせで、本人にとっては、
嬉しいながら苦しみもあるらしいですね。

 

 60歳から絵を始めて今まで、急速に技量を上げて、活躍してきた下山さんも、そういうことを経験してきました。

 それは下山さんだけでなく、アートの道を行く途中で、大なり小なり誰もが経験していく問題だと思います。

 

 その時点での技量はともかく、アートを志す人は、訓練を始めて、アーティストの道をコツコツいくしかないと思います。
スタートが早かったり、周りに名教師がいたり、また何より本人の意思が強く練習量が多ければ、
それなりに、さらに技量は上がっていくと思いますが、それは結果の問題であって、

基本は誰しもこの「アート=やっていくしかない」ということだと思います。

 

 森の休日社の依頼原稿部門の下山康麿氏の場合は、スタートが60歳からでした。

絵画の世界では、他にも少ないながら、スタートがとても遅い、プロの画家がいます。
例えば70歳で始めて、プロになり、90歳で受賞されたりの。

 

高校時代に美大を受験したいと思い、叶わなかったときから40年以上経って、やっと画業を開始することができた下山さん。

美大進学を反対されて、卒業後、ぐれたような放浪時代、病気、帰郷、自衛隊入隊、結婚、子供の誕生、定年、第二就職と定年、
そして最後のハローワークの窓口相談員をしながら、やっと絵筆を取るゆとりを得て、決心がついた

 

スタートし、それからぐんぐん技量も上がり、画材店のすすめで全国組織の美術団体である「蒼樹会」に入会。
それから、会友、会員と異例のスピードで昇格しました。

そして、そこから数年スランプに苦しんだ時期もありました。

この時期に森の休日社で原稿を頂き、インターネットでご紹介させておりましたので、
それも少しはそのスランプの原因になっていたかも?と、ウチでは少し心を痛めておりました。

 

しかしその状態を脱し、昨年は会員優秀賞、江東美術賞と、2つの賞を受賞されました。

この受賞まで、何年も下山さんがスランプで何年も苦しまれ、絵筆を置いて、木彫りで仏像を彫ったりもされていたのをを知っていましたので、
とても嬉しかったです。

 

ただ、「受賞」とかそういうことは、素晴らしいことながら、アートの道の中では水ものだという気がします。

確かに受賞は大変難しことだし、素晴らしいことではありますが、アート、アーティストの真価は、
そういうことだけでは計れないと編集部は思っています。また、そういう「賞」さえないジャンルのアートもたくさんありますし。

 

確かに下山さんの受賞作は素晴らしかったのですが、それと同じかそれ以上に価値を感じたのは、下山さんのその後のことでした。

予想では、またプレッシャーで、次の作品は苦しむかな?と思っていました。

しかし「異例のスピードで会員になった後」の数年間のスランプを経験した下山さんは、
もう次の山、「受賞後」はもう昔の下山さんとは違う、たくましさを少しだけ身につけられて、マイペース
 

2008年5月、札幌市民ギャラリーで、蒼樹会の下山さんの今年の作品、「蝦夷富士遠望」(油彩f100号)を観て、

「ああ、下山さんはスランプもプレッシャーもふっ切ったな」と思いました。
それは晴れ晴れとした、力強い一作でした。

 昨年の受賞の後、今年はプレッシャーで不調が予想されていたのですが、
もうそういうことも自分なりに乗り越えて左右されなくなった、とでもいうように、堂々とされておられました。

 

 報われにくいジャンルのアーティストは、逆境(?)には意外と平気でも、その反対には、気が引けてしまったりして、
辛い気持ちになってしまったりする場合もあるようですね。受賞というはっきりした形でなくても、
何かこう「いいこと」に対しても免疫力をアップしないと。そういう意味でも、アートの道は心の修業の道でもあるのだと思います。
そんな大それ意味でなくても、ささやかに自分なりに。

 

 今回の発行をもって、依頼原稿部門の下山康麿氏は森の休日社を卒業されます。

さびしいけれど、画業の方はこれからも続けられますので、これからも皆さん何卒よろしくお願い申し上げます。

 

以下は、下山康麿氏の特集アンケートです。

※追加質問含む

 

1. 60歳から本格的に画業を始められたいうことでしたが

その前までいつ頃からどの程度までされておられましたか?

 

A: 30代の頃4年ほど描いてみたことはあります。

   高校時代美術部に籍はありましたが一枚も描いた記憶はありません。
放浪?していた頃は絵のことなど頭の片隅にもなかったと思う。

 

 

2. 60歳から本格的に画業をスタートしたということですが、それは具体的にどんなことをしたのですか?

 

A:60歳で定年になり仕事もないまますることもなく絵でも描いてみようかと思い、
近くにあった水彩のサークルに入ったのが始まりです。

 

3. 全国美術団体の中で、蒼樹会を選ばれた理由はなぜですか?

 

A: 蒼樹会には選んだと言うより画材店に勧められ入会しました。

今でもあまり変わりませんが、当時は絵の世界のことはまったくの無知で札幌に市民ギャラリーがあることさえ知りませんでした。

 

 

4.  蒼樹会の特徴はなんですか?

A: 会の特徴と言われても困りますがしえて上げるとすれば、すべての分野に門戸を開いていることと思う。

 

蒼樹会

http://soujyukai.com/

 

5.下山さんにとって、  絵を一人で描いているときと、

  こういう大きな美術団体に入って絵を描かれる場合の違いはなにですか?

A: 油彩を始めて約1年半位の初出品で会友推挙といゆうことですので、
一人で描いている時は団体を意識して描くことはなくキヤンバスに向かっている幸せ?は少し感じていると思う。

 

6.  蒼樹会に新しい入会者を勧誘するとしたら、どのように言われますか?

A:絵は各個人の感性によって生まれるものと自分では考えていますので、
本人同様他の作品にも温かい目を持っている人が望ましいと思う。

 

7.70歳で絵を始めて、90歳で画家になるというような方が、画壇には時々おられるようですが、

そういう人たちを下山さんはどう思われますか?

A: 年齢的にどうとは言葉にできません、絵を描いているときの自分は今でも60歳であり年齢は頭にありません。

   支部の中にも80歳を過ぎた方が何人か居られますが作品に年齢は感じられません。

 

 

8. 60歳から始められて、昨年節目の栄えある受賞。このことで、

下山さんの中にどういう変化がおきましたか?受賞してすぐと、それから落ち着いてからの両方。

A:受賞前と受賞後の変化は特にないと思う。

  初出品で会友以来いろいろとありそして今回の受賞とその出来事に戸惑いはありました、ただその後の変化とかは特に

  ないがこれからの作品に自分をどれだけ表現できるかは考えている。

 

9. 受賞後の次の作品を描かれるとき、プレッシャーはありましたか?どうやって克服しましたか?

A: 趣味の世界にプレッシャーはあまり感じないのではないでしょうか、
無論驕ることなく一層の研鑽は惜しむべきではないと思いますが。

 

10.  会員になってから下山さんは数年スランプで苦しまれていた時期がありましたが、

 スランプになる前のこと、スランプになってからのこと、スランプを抜けるまでのことを、

 なるべく具体的に教えてください。

 

A:スランプと言うほど大袈裟なものではなく、会員に推挙されたことにより自分の作品の何が評価されたのか
見当がつかず困ったことはあります、抜け出す為とは思いませんがとにかく外に出て自分の好きな風景を見る、
それがやはり描くこにつながったと思う。考えても仕方がない、とにかく体を動かしてみるこれしかありませんでした。

 

11. この先また自分がスランプになることがあるかもしれませんが、そのときの自分に何か考えていることがありますか?

 

スランプということではなく、自分の方向性について悩むことはあると思う私自身今でもそうですが、
ひとつの作品についてあらゆる方向から言葉(批評)が飛んできますがそれに惑わされず平常心を保つことでクリヤ出来ると思う。

 

12.下山さんはどうして60歳まで本格的に画業を始めることが出来なかったのですか?

時間やお金、体力ということは決定的なことではないと思います。なぜ全然されなかったのでしょう?

それは定年したらと決めていたからですか?

 

それとも、何か画業を始めることについての、心の障壁があったのでしょうか?

もしありましたら、具体的に教えて下さい。

 

A: 12)項でも触れましたが生活していくことが一番だったと思う。

  小学生の頃は絵描きになりたいと思ったことはあったと思う、しかしそれはあくまでも子供の頃の誰でも持つ夢の一つで

  定年後に絵を始めようとは考えもしませんでした。現役の頃は生活を守ることが第一義だったと思う。

13.  受賞は、その後絵を買って下さる方との関係で何か変化をもたらしましたか?

A:絵は売れていません、なかなか難しいものですね。今は北海道の「日曜会」の会員でもあり地方紙(新聞)にカラーで

  掲載されることもよくありますが受賞後も特に変わったことはありません。

 

 

14. 下山さんにとって、「不調」とはどういうことですか?また「絵が売れる」とは、

また「受賞」とはどういうことですか?

 

A:不調とは気分が乗らないときのことでしょうか、

  絵が嫁ぐときはまさに娘を嫁にやる・・・とでも言う気分かもしれない、嬉しい様な淋しいような、
また行き先の不安などない交ぜのような気分です。

   受賞とは後で喜びが沸いてくることかもしれない、たとえ賞のために描いたとわ言わないまでも。

 

15.画家仲間の方との関係を教えてください。楽しいこともそうでないことも。

学んだことも。

A:会の仲間と特にこれと言うつながりはありませんがとりとめのない話でワイワイ一杯やることでしょうか、今年は特に

   東京本部から役員等10名、富山支部から6名の参加がありたいそうな賑わいでした。

 

16.これからどういう絵を目指していきたいですか?

A:離れて見ても近くから見ても同じ感覚で見れる絵、独りよがりや気取りのない絵を描きたい。(夢でもある)

 

17.これから絵はずーっと続けられる予定ですか?

 木彫のサークルでアドバイザー的になっていますが絵は描き続けると思う。

 

18  .ニートのようなことをして、絵を描きながら画家を目指す人もいると思います。

また事情が許さないなら、社会人をして働きながら、

下山さんみたいに年取ってから始められる方がもいると思います。

 

どちらのタイプにも成功する人もいれば、失敗するひともいると思います。

それぞれのタイプに下山さんが何か思うことありますか?

画家として思うことと、ハローワークの相談員等を経験された社会人として思うことと。

 

 A:私には難しい問いですが、何事であれ自分で進もうと決めた道であればまず取り組み歩を運ぶことだと思う。

    続けることでもし失敗があったとしても其の事から何かを見ることもあると思う。

 私ごとですが再就職先に合わなく3ヶ月で4kg痩せ悩んだことがあります、
その時考えたのは
1年間は止めまい、そうでなければ何も分らずただの苦労で終わってしまう、と気付いたからです。

 

19.いつも蒼樹会の方々の本部支部の方との飲み会のことを、

とてもうれしそうに話されますが、どういうものか教えてください。

A:(18)項でも書きましたが、絵の話題は少なく世間一般の話が多かったと思う。

   ただ本部の方々からは北海道の自然を羨ましそうに聞かされました。

 

23.絵画ということに限らず、これからしたいことありますか?

A:絵と木彫りは今のままですが、出来れば書(習字)をやってみたいと今思いました。

 

20.何でもいいですので、何か下山さんからコメントあったらお願いします。

A:よくこれだけの設問を考えられたものと感心とともに参りました。

 

21.今まで受賞した作品名と賞の名前を全部教えてください。

A:受賞作は一点のみですが会場に掲示された作品を並べてみます。

 

      平成9  能取灯台(呼春) f 60号  会友推挙      

        12  凪ぎの西積丹  f 100号  会員推挙

        14  呼  春      f 80号   賞候補

        16  浜の想い     f 100号  賞候補

        19  西積丹      f 100号  会員優秀賞

 

 ※会場には受賞作者、賞候補者、会員、会友推挙者の氏名が掲示されます

 

22.それと別に、ご自分の好きな作品名を。

A:秋装の道 (恵庭岳) f20号(売れました)くらいでしょうか   どれも私には同じに思いますが 
会友 会員推挙の作品受賞作はやはり今は気に入っています。

 

23.売れた絵の中で、お客さんが言って下さったことを教えてください。

A:10号の「夏の西積丹」では昔住んでいた近くですので是非譲ったほしいと言われたこと、
盤渓からの手稲山の作品はそのかたの家まで行き掲示してあげましたところ家の中が明るくなったと非常に喜んでもらいました。

 

24.個人宅以外の所に今、売れたりした絵が飾ってある場所がありますか?

 近くの会館に f 80号 寄贈しています。

 

25.何かPRしたいことがありましたら、書いて下さい

特にPRするほどのことはありません。

    今までの内容は一応考えて書いたつもりですが生意気な点もあると思います、

    一趣味の人間が思いつくままとご寛容のほどお願いします。

 

 

追加質問

(1)高校美術部在籍中に一枚も絵を描かなかった、とありました。

 

それはどういうことでしょう?またなぜでしょうか?

A:について、一年生の頃は真面目に学生をやっていたと思う

  2年生から応援団の仲間入り、3年生になって家をでる心を決め言葉の練習と

  体力と腕力をつけるため何故か父に止められていた柔道にのめり込んでいた。

  美術部にはなんとなく籍を置かせてもらっていただけです、

  学校では一枚も描いていませんが、家では古本屋さんで見つけた本を参考に

  裸婦のテ゛ッサンをよく描いていた、弟の部屋と違い私の部屋は裸婦のデッサが

  張り巡らされ、父から「女の裸ばかり描いてどういうつもりだ」と怒られ剥され                

  てしまった事もありました。

   ただ水彩一点だけは高校の文化祭で賞をもらったことがあります。

  それは私の友人に頼まれ友人の高校に出品した作品です。

 

(2)趣味の世界にあまりプレッシャーはない、とありました。

それは心からの本音でしょうか?

 

A:今になるとプレッシャーとはどんなものか理解できない面もあります。

   もし強いて言うとすれば頭の中で分ったつもりでいて、この作品はこの方向         

   性を持った表現で描こうと思って始めてもそれが筆先につながってこない

   ことかとも思う。

   そのようなことで筆を手にすることが難しくなることもあります。

   人間欲があるようでそのこだわりを除くことはなかなか出来ないようです。

   とは言え描くこと意外に道は進まないと思っている。

 

追加質問2

 

高校時代に美術部で絵を描かなかったことは、分ったのですが

水彩画で受賞した(文化祭)お話のことです。

 

Q1これは、どういう形で制作することになり、

どこから出品し、どういう形で賞を頂いたのでしょうか?

美術の授業の一環ですか?それとも美術部ですか?

クラスということでしょうか?

 

A:子供の頃から絵を描くことは好きだった・・・とは以前にも言いました。

その事から小学高学年の頃から神社に奉納する 額 (絵馬というかも)を描かされていた事もあります。
大きさは 
3040号くらいでしょうか。

 

 その事を知っている友人が高校生になって、「文化祭にどうしても絵を出さなければならなくなった、
俺は描けないのでどうしても一枚描いてくれ。」と頼まれ
8号くらいの水彩を描いたものです。

 同じ町(今は市)にあっても違う高校ですから、授業、部活とはまったく関係なく見慣れた近くの風景を描いた一枚です。
その絵を友人が自分の名前で出品したそうで、受賞したと嬉しそうに話してもらっただけで細部は不明です。

 

 

あとがき

 当時、下山さんは「ニート&引きこもり」を選ぶべきだったのか?

 

2004年に下山さんの原稿をうちで販売開始してから、もう4年。

http://www.morino-kyu.com/syoukaisimoyama.html

下山さんと初めて出会ったのは、1998年でした。

 

 当時、求職のパソコン検索がないため、私が求人票を見に毎日通った職安(ハローワーク)で、
窓口相談員の下山さんと、出会いました。
当時彼は「職安の仏さま」と呼ばれた程の人情味あふれる名職業カウンセラーでした。

 大不況が長引きはじめ、世相を反映した、暗い表情の求人者たちが大勢、彼の励ましで勇気づけられて、
次々就職試験を受けて、再就職していったものです。

 彼の所には、沢山の礼状が来ています。(そのうち一枚は私のも)

 

 その短い仕事探しの期間の途中、職安で初めて彼の絵を見せて頂き、私は彼の昔話をちら、と聞きました。

 人は見かけによらぬもの。生真面目で、温厚な窓口相談員の彼は、若い頃はグレて、
ケンカ早かったり、フリーターっていうか、放浪生活してたりしてて、もう大変。

 

 高校を卒業後、美大進学に反対されたこともあり、グレて上京して放浪生活を送り、ついに病気で倒れ帰郷し、
それから自衛隊に就職し、定年退職後、都銀に勤め、それから職安へ。

 実戦に出ないという前提だった時代とはいえ、世の批判も多く、訓練も厳しい自衛隊を定年まで勤め上げるのは、
しんどいことです。多くは途中で辞めてしまいます。でも下山さんは定年までがんばった。いいこともあれば、大変なことも。

 自衛隊として、札幌雪まつりでは、初めての巨大「氷の滑り台」のアイデアを出し、企画から設営手がけました。
そしてその後の8年間の都銀勤めでは、何年もいじめにあった時期がありました。

それからやっと小学校、高校時代からの画家になるという夢を取り戻すことにしたのです。

 

 定年退職まで、生活のための仕事で精一杯で、その後から夢を追いかけるという人も少ないながらおります。

 例えば考古学者のシュリーマンとか。たまたま結果として運良くシュリーマンには素晴らしい結果が出ましたが、
誰もがそうとは限らないと思いますし、こういう人たちは、結果何て二の次で、思い残すことなく一生を終えるためにも、
昔あきらめたことにトライするんだと思います。

 

 他の、若いころからアートの道で苦労したアーティストは、こういう生き方には批判的な部分もあるかもしれません。
特に舞台芸術系の人は別な仕事との両立は難しいです。

 だから純粋でないのでは?と。大して絵が好きでなかったのでは?と、言われても仕方ないと思います。。

 ものになろうと、なるまいと、下山さんは若いころの放浪生活と画業を続けるべきだったんじゃないか?と。

 しかし家が大金持ちでかつ両親に芸術に理解があるか、何らかの形の芸術に理解あるパトロン、
スポンサーがいるのならば、
又は宝くじの高額当選者にでもなれば、アートの修業に専心することが可能ですが、


(また、そういうのもそのアーティストの運っていうか、運命なのかもしれないですね。
恵まれていたからいいと限らないけれど、恵まれてないからといっていいと限らない。
恵まれているに越したことはないと思います。

恵まれていたのを上手に生かせたら、
やはりより良い結果が出やすいと思います。
例えば、日本のプロのバレリーナ等は、実家にそれなりの財力がないと難しいようですね)

 で、家が大金持ちという訳でもない、両親に全然理解されない、くじ運も悪い下山さんは、
更にその時点では、プロの画家の技量がなく、病に倒れフリーターもできなくなり、手に職もない。
何か割のいいバイトをしながら画家を目指したいと思っても、割のいいバイトというのも別にない。
 

 下山さんがもし画家の夢を捨てなかったら、ニートから引きこもりになるしかなかった。

 引きこもり?で成功した画家は、ユトリロらしいですが、それ以外の絵を志すニートの場合、
画家としても、他の職業人としても上手くいかず、ただ引きこもるだけになりがちなのではないでしょうか?


(ちなみにユトリロは、話によると、父が誰か分りませんが、母親や面倒をみて育ててくれた人等、周りが画家だらけでした。
 引きこもって学校には行けませんでしたが、絵に関しては環境は恵まれていました)

 

 引きこもりの道は、入口は楽で優し気だけど、長引けば長引くほど引き返すのもしんどい、本人にとって、
心身共にとても、じわじわと残酷な道だと思います。

 

 とりあえず、ニートから引きこもり路線を回避して、画家の夢から迂回した下山さんは、別な意味で、
職場でたくさんのことを学び、60歳まで絵とは全然関係ない苦労を沢山してきています。

 とにかく放浪生活と病気のあと何とか就職し、そのあと結婚して、子供が次々生まれてしまいました。
子供はどうしたらいいのか?

 

 大抵のアートは、生活が大変ですが、その中でも画家は特に大変です。

ポップス系のミュージシャンは、「働かない」と決めて音楽に命をかけても、もしも報われたら大きいです。

 しかし、それ以外のアート、特に画家の場合は美術学校の教員でもない限りは、絵が売れてもそれだけで生活は大変な人が多い。

 外国でも若い画家が集まって、修業時代に貧乏暮らしをした逸話がたくさんありますが、特に日本の美術界は、
生きている画家にとって無慈悲な部分が多いらしいです。まず後にも先にも血も涙もないような。


 例え報われにくいジャンルのアーティストでも、何とか食いつないで、修業時代を送る人もたくさんいます。
そしてプロの技量が備わってからも、何とか細々食いつないで、何とかアーティストとしての活動中心の生活を送る人も。

 

でも子供が次々生まれたとなると、これはもう....だと思います。

そして、次々子供が生まれるということ自体が、下山さん自身の若いころの自らの選択だったのだと思います。

 

  なお、60歳まで絵筆を取れなかった下山さんは極端ですが、日本の多くの画家は
別の職業を持って画業を続けている方が多いようです。


以上です、