一般客席の
インド古典音楽演奏の聴こえ方 (C)

井上憲司さんライブのラ−ガの演奏で、
自分に分かる範囲での演奏の聴こえ方の種類。

 段々、長い年月かけて聴こえる範囲が広がってきた気がします。
やはり普通の聴覚の人でも、好きな音楽にずっと耳を澄ませていると
段々聴覚はそれなりには発達してくれると思います。

<自分で音楽出来る人たちの鋭敏で訓練された耳と違うので、大雑把です。
 しかも音楽する人たちの理論に裏打ちされた、明晰な解説と違って素朴主観的な素人感想ゴメンナサイ>

本当はもう少しあるのですが、ただそれらはあまり主観に傾く感じがしたので入れませんでした。
にしても、あまりに主観素人的で恥ずかしい書きかたしかできなくてゴメンナサイ。




 インド古典は、宇宙や自然を表現しやすい構造を持った音楽です。
具体的なことから抽象的観念的なものまで。
(他の種類の音楽でも、そういうこと感じさせる演奏される方もおりますが)

 テ−マも一日のうちのある決まった時間帯や「雨」や「夕日」というような大きな分類のが多いです。

★もともとラ−ガって、「表現の素」という感じの抽象的な音の元素の集まり、羅列という感じで、
それを演奏者がその時したい種類の表現の仕方に応じて、溶かし方(?)を変える気がします。

 
@自然の情景、風物がシタ−ルの音で丹念に表現されて、浮かび上がってくる。
地味で穏やかな弾き方ですが、じつはとても難しい弾き方だと思う。圧巻です。

A@に加えて、それが生命のあるエネルギ−みたいなものの琴線に触れる瞬間部分がある。
(耳福ですね)

Bシタ−ルという楽器がまるで擬人化でもしたかのように、体と感覚を持った生き物のようになって
別の存在・人間である井上さんがそれの芯を掴んで、思うようにする感じ。シタ−ルと井上さんは別物。
(正直言って、もののけというか魔物というか..............そういう感じがします)

C井上さんの演奏する音が何か別のものになる。
たとえば「ダンス」を想起させるとしたら、それは「ダンスのためのBGM」でなく又ダンスするタンサ-を
浮かび上がらせるのでもなく、音そのものが踊っている感じ。
音がエネルギ−を増していき存在を強める感じ。

D文字通りの「楽器」としての演奏。
タブラと合って、走っていったりユニゾンしたり。
 楽器そのものの音色の良さ、普通の楽器としてのシタ−ルの素晴らしさ。
(でもこれはこれでまた大変な演奏です)

E宇宙がもし一つの点から始まるのだとしたら、その点のある所からまっすぐ井上さんの
シタ−ルの所に何かが糸のように降りてきている感じ。(聴いてる私がキてるだけなのかもしれない)
つまり、「遠い所の正しいポジション」から届いている感じの演奏。

F井上さんの背景とか上方に何か構築物のようなものの骨組みが、おぼろ気にあって
それが透かして浮かんでくる感じ。そしてそれにこれから細部が段々入っていくというような感じ。

GDの演奏のタイプの演奏の時で、井上さんがそういうノリの時は
シタ−ルの音の流れのすそが「きゅっ、きゅっ」と不思議な感じでちょっと上がる。
彼のユニットJAZICOのCDの表紙のイラストの「宙に浮く吉祥天の裳裙(もすそ)」みたいに。
 ※吉祥天=インドの神様 サラスヴァティ−

Hこれは一度しか聴いたことないタイプの演奏。
ただしDの演奏が、もっと進化したもののような気がしました。

もしラ−ガが抽象的な音の「表現の素」の元素の集まりのようなもので、
各演奏者がそれを自分の音楽に合わせて溶かして使うものだとしたら。
これはタイプDの演奏をもっと深めた感じがしました。
 つまり「何かの表現に転化する前の段階の音での演奏の追及」という感じ。
超絶技・悪魔のトリルという感じでした。

この演奏が、私の好きなタイプ弾き方かどうかはともかく、
ものすごかったですね。会場がお寺だったのですが、
演奏聴きながら思わず心の中で私は叫んだ。訳もなく。
「お寺でこんな演奏していいの〜!!」

音の芯の中核というような部分に、シタ−ルがさしかかるとその寸前に迂回したり、
引いたようにして、通常演奏する音の核の部分だけを弾かないで、その周りだけを演奏する感じ。
すると、演奏されない音の核の周りに振動のようなものが生じて、
結局音の中核を浮き上がらせるみたいな演奏。
 高いテンションで聴き手も引っ張られていきました。

 この演奏の時の共演のタブラの方のあんな嬉しそうなコ−フンした顔も
見たことなかったですね。

I演奏のスピ−ドが、必要に応じて倍速になることもあります。
それでもくずれないで、曲のよさは損なわれていませんし、
むしろその速さでしか表現できない、素晴らしい音楽です。
 客席で気づいた人達は喜んじゃって、喜んじゃって。

(バレエで言うと、よくマンガに出てくる有名シーン
 「白鳥の湖の”黒鳥”の32回転」をダブルで回る人のようなものでしょうか)

Jこれは静かで穏やかな感じで始まった演奏でした。オ-ソドックスな。
それが中盤に差しかかったとき、はっきり上手く言えないのですが.......。

 シタ−ルの音の部分から何かが気化していく感じ。
精神の中に、何か情動でない無感覚な部分があることを感じさせたのです。
情動でないし、「無意識」という分類でもない部分。
そしてその部分こそが多分精神の本当の力の眠っている部分のような気さえしました。
「精神の構造」が何なのか私には全然わかりませんが(はは)、この演奏はすごかったですね。
個人的にはHよりずっと感動しました。

Kこれは別なペ−ジにも書いたことです。
演奏の中に、一部今まで考えたり感じたりしたことのなかったようなことがおきる時間が
あるということです。
 それは突然始まり、曲想が変わると終わってしまうのですが。

 うまく言えなくて恐縮です。
通常は音楽、ラーガの中に例えば音と音のつながりに、
または弦の振動に、「左右対称」とか「表と裏」とか「陰と陽」の関係が
あるとしたら、

 演奏の途中でそういう上記の通常の音の法則のようなものを越えた瞬間に、
自由になれる空間があることを、かい間見せてもらった気がしたこと。
 
 表現としてラーガを崩したり、モダンアートのように一見めちゃくちゃなことを
しているのと全然違って、あくまでクラシックなラーガの演奏の中にあることです。

 よくバレエで、重力等の物理的法則を逸脱したかのように見える
素晴らしい瞬間があると言われますよね。
 種類は違うけど、あれと似たようなことですね。

 ........音楽能力が低いので、ちゃんと説明できないのが残念です。

L人の記憶の中にある「団欒」の感じがした(主観かな)。いい雰囲気。
プライバシ−部分は一切知りませんがご自身のご家族の他、
年中全国の演奏会場を回る井上さんの団欒は、
今の所共演者や現地のお世話人さん(?)の方々の各家庭等でのひと時かもしれませんね。
シタ−ルが、こういう感じの音も出せるのかとびっくり。
 ラ−ガは天上、宇宙や大自然を俯瞰して表現しやすい構造を持った音楽ですが、
同時にちゃんと巷の人間生活も表現できるのだと思いました。

 そして感じたのは、
その天上の宇宙的な世界と、巷の現実の人間生活の世界は、
階層になって高い所から低い所まであるのでなく(本当はそうなのでしょうが)、
不思議と一人の人間にとっては意外に、並列・平行な世界として同時に存在してるのかも
しれないということでした。(これは完全に自分の好きなような考え、主観ですが)

★これから先も、必要があれば井上さんの演奏の種類は増えると思いますし、
必要なければ増えないかもしれません。減るかもしれないし。
 大切なのは種類が沢山あることでなく、井上さんにとって納得のいく演奏をが出来ることだと思います。

以上でした。



 自分にとってラ−ガとは、一体何だろう。
一時中毒していたときはある昔の小説を思い出した程、変になりそうでした。

 多分ラ−ガって音楽としては強すぎて、
ハマると「自分で楽器を演奏出来ない人」の場合は
自家中毒してしまいやすい音楽のような気がします。一種の「つらい状態」。
(他の音楽も同じかな)
  
 最初の2回を過ぎた頃はライブ終わると、ろくに口がきけなくなりました。
頭もボ−ゼンとした感じで、今聴いた音楽のことで一杯に。

(私は音楽は出来ないし、これからもしない予定ですが)

 思い出した小説は、夢野久作の「崑崙茶」という短編。
(角川文庫で絶版になって久しいはずですが全集には入ったらしいです)

 中国の、底なしの暗闇のような魅力のお茶「崑崙茶」。
この茶を味わうために大金持ち、貴人達が身代つぶして最後は衰弱死していく話。

 でも、ある日井上さんのライブを中毒して聴くのは良くないと思ったのです。
 演奏している彼は中毒していない気がしますし、至って健康的です。
 
 私がその後もどっぷりで聴き続けたことには変わりありませんが
心持ち前向きで健康的な聴き方の方へ向かえた気がしています。
 自分が中毒から抜け出せたのかどうかは、まだ良く分かってないですが。(はは)

 うまく言えないけど、どんなものでも中毒してしまうと
何かを見失う気がした。音楽でも嗜好品でも食べ物でも何でも。
 聴く回数は聴き方は何一つ変わらなくても、
心のどこかにしっかりしたものを持って聴かないと
初心者はラ−ガに負けちゃうかもしれないなぁ、と思った。

 多分このプロセスは、
私のような聴き始めの初心者が誰でも通る関門の一つなのかもしれないと思いました。