あらひろこ(フィンランドのカンテレ奏者)

2006年12月

Hard to findの扇柳さんとのユニット、
aasian kukka (アアシアンクッカ)のライブでした。
このユニット、NHK等でも活動中。
 ユニット名はフィンランド語で「アジアの花」という意味です。

 ちょっと早いクリスマスライブ、音の響きの良いという、心地よいカフェでの、アットホームなライブでした。

 「囲む良さ」っていうのを、本当に味あわせてくれた日でした。
「囲む」とは、小さな会場で雰囲気良くて、しかもお店の方等のスタッフの方が、いい空気をつくってくれているような時にある。

 ゆったりイスに座って、すぐ前にいる演奏者たちの演奏を、
一曲ごとにせがむように、楽しんでいるカンジかなぁ。
 外は寒いけど、お部屋は温かくて、飲み物もおいしくて。のんびりと。
 
客席は息を詰めて聴くというのではなく、
でも「音楽はBGM」となっている訳でもなく中心で、なごやかに。
あくまで、鑑賞の妨げないように全てに気持ちが配られていました。

(ここまでは、扇柳さん記事のとダブっています)

私はあらひろこさんの、公開されているプロフィール以外の
ことと、ライブで見たこと以外のプライバシーを何も知りません。

この記事には、アートと女性の人生について、いくつかの話題が
出てきます。
そして、それはあらさん個人のプライバシーと直接関係ないです。
(私はあらさんのことを、全然知らないです)

ただ、この日のあらさんの演奏する姿、そして長い「追っかけ」で
ライブで見聞きした、沢山の女性アーティストをみていて
(誰のプライバシーも詳しいことは知りません)、
考えさせられたことを、集大成(はは)みたいに付け加えました。

アートは生活の手段として、大変な部分があるし、
それでいて練習に取られるエネルギーも時間も多いです。
(他の仕事も同様ですが)

だから、客席から見ると、きらきらして見える舞台の裏で、
みなさん、いろいろな思いをそれぞれ抱えておられるのだと
思います。


aasian kukka では、又少し前に聴いたカンテレのライブとは又少し違う雰囲気の演奏がほとんどでした。

あらさんに今回感じたのは、二面性でした。いろいろな意味での。

どちらかというと、老若男女子供を問わず楽しめる音楽が中心に思える
aasian kukka 。

扇柳さんの圧倒的な表現力の相棒として、あらさんは「見守る・支える
・ きっちりやる」という優等生であり、母であることを感じる演奏を続けていました。
そして、一曲だけ違うタイプの演奏がありました。(めちゃ良かった)
(その話は、この日の記事の最後に)

それでは、特に印象あった曲を中から幾つか。

「天国のポルスカ」は、物語を紐といていくような演奏でした。
あらさんは、フィンランドとの交流の仕事をしていたこもあり、フィンランドとご縁の深い方です。

 そして、音楽だけでなく、童話、民話の研究もされている方のようです。その蓄積が、いい意味でこの演奏にも出ていたように思えます。

 前に聴いたときは、旋律楽器としてのカンテレだったように思います。今回は、扇柳さんきちんと受け止める演奏をしておられました。
 
 アジア的な魅力のあるあらさんの顔立ちですが、意思強く、自分なりに保守的な良い目標を設定して、それをきちんとクリアし続けてきたというような、印象を受けました。

 学生時代も、結婚しても、母となってもがんばってきた、というイメージあり。
 もし妹でもいたら、妹にとっては優等生で息ちょっと詰まるようながんばり屋で、ちょっと煙たいけど、でもお姉ちゃんがしっかりがんばっているから、

 妹は安心して気楽に好きにやれる、みたいな頼もしさがあるのかな?
(ちなみに私は妹でないです。あらさんより多分年上)

でもお姉ちゃんには、お姉ちゃんなりにどっか亀裂みたいのもあるんだと思ったり…..。うん、勝手に想像。

すご〜くほしいもの、すご〜くやりたいこと、ってその人の人生のバランスを崩してしまうし、一歩間違うとめちゃめちゃにしてしまうようなコワさがあるものだから。

「強い抑え切れない欲望」というのと又ちょっと違うけど、似たようなもの。
 
昔、知っている人に私よりずっと年上で、すごく素敵な女の人がいました。その人は、とても社会的に良い肩書きを持つ夫がいて、経済的にも恵まれた人でした。子供達も順調に育ち、又良い就職を。
 性格も良く、同性がみても憧れるようなカンジのいい人でした。

その女性は、主婦業にひびかない程度に、おけいこゴトをして、社会人のアート系サークルにも入り、素人としてはとても良い成果を上げ、又ボランティアで市の社会的な活動もしていました。そして、年を取っていった。いつしか、髪も銀色がかった白髪に。

誰も彼女のことを悪く言う人はいないし、夫にも子供にも愛され続け、妻として母として敬われていた。主婦として本当に成功して幸せになれた人。

その人が私に教えてくれたことがありました。別に彼女は私のことを知らないし、何かそういう話をしたこともなく、年配の人が自分の人生で学んだことを、年下の私に思い出しついでに、ちょっとづつ、ちょっとづつ、聞かせてくれていて、それもそういう話の一つだったのですが。

「女はね、何ごともほどほどがいいのよ」、と。

それはだれもがうらやむような○○夫人というような人、恵まれた家庭で、優しい両親に愛されて育ち、順風満歩で進み、いい夫に愛されて嫁ぎ、
いい子供に恵まれた。お金にも困ったことがない。
 
女性としては銀のさじというような、うらやましい人生に見えたのですが、
その言葉の中に、彼女がその人生を維持するのは、決して楽なことばかりではなかった、と感じられたのでした。
彼女は本当に賢い女性だったのだと思います。自分を抑えて生きてきた。その楽さと、大変さは、両刃の剣なのかも。

ゆるぎなく見える家庭の平穏なんて、ちょっとバランスを崩したら、
簡単に壊れてしまう。自分が崩さなくても、家族の誰かが崩したら、
それは戻すのが本当に大変なのだと思う。運も当りもありますが。

母親の役割は、一家の中でとても大きいです。本当に家庭の幸せを維持していくために、見えない苦労がいろいろあると思います。

(父親も同様ですね。そのバランスは本当に大変だと)

気のせいかもしれないけど、その昔に私が知っていた年配の女性の方の言葉を、あらさんの演奏中の表情に思い出したのでした。

何か葛藤を抱えながら、自分を支えながら、掴みながら、必死のあらひろこさんの一面みたいなものを。

それは、あらさん個人というより、結婚して家庭を守っている、時代ごとにファッションとか言動は違っても、「女大学」というのでしょうか、「女性の役割」を果たすことと、自己実現の相克の大変さが、垣間見えた気がいたしました。

 どっちを選んでも、必ず幸せになれるという保証はないです。薄幸っていうか、どっちも上手くいかない場合もあれば、両方手にする場合もある。そういう結果は、この場合どうでもいいことです。

私の知人のその年配の女性の方は、運良くその「女性の役割」に徹することによって、経済的にも社会的にも家庭的にも成功することができました。

しかし、逆の場合だってあるし、人によって、時と場合、運によって、
どんな結果になるかなんて、最後まで誰にも分からないですよね。

これは別にあらさんに関係ないことですが、女だけでなく男の場合も、
アーティストであることと、生活していくことの大変さのバランスは難しいです。
どうしても、どっちかに傾かないと……..ですから。

アートは男女関係ない業界ですよね。そこは良い所ですが、だから、逆にアート系の女性は手一杯がんばらないとならないです。

アートは、並外れた練習量を維持することを、要求してくるし、特に舞台系の人は、家庭でできることに限りがありますから。

ただそれでもどうしても、好きなこと、したいことがある場合は、
割り切ってでも進んでいくしかないのかもしれないですね。

(これは前に書いたコラムに似た問題があります リンク

アートでなくても、他の仕事の人でも趣味の人でも同じ問題が女性にはありますね。

ただ、女性は逆にその分許される部分があるので、楽なこともありますね。何かを極めようとして、挫折するときの口実に女性としての問題をしてしまうことだってできます。

家事って、やってみた人でないと分からないけど、長期に渡ると本当に大変。専業主婦だって、精神衛生から何から含めると、共働きと又違う大変さだし。

(同様に男の辛さと楽さもありですね。仕事だけ、も本当に大変)

ただ子供を育てる目的中心に作られた結婚制度は良くも悪くも、男女双方がんばらないとならない部分があるので、ある程度こういう形態になっているのは、あながち差別というだけではないのだと思うこともあります。

都合いいときだけ「男」になって、都合いい所で「女」に戻るっていう訳にもいかないですから。(ここが現代女性の考え所ですよね。何を選ぶか。人によって違いますね。これは)

……..だから、何を選ぶかは結局自分で納得できるものでないと大変だと思います。ネガティブなことを考えるのはよくないですが、例え上手くいかなかったとしても、納得できる方を選ぶっていうか。

 リスクとか人生の目的とか、生活の大切さと生きがいの大切さとか。
こういうの、アート関係では、一生悩む人が多いと思います。

ただ男性よりも、女性は少しもっと、生活のこと考えないとならない部分が大きいかも。そんな強く生きられる女性って、多くないと思うから)

(まあ、中には育った環境によって、結婚した状況によっては、経済的に保証されて、「したいこと」三昧どっぷり、っていう恵まれた女性もいますね。そういう場合は、男性より強いかも)

ちなみに女性の独身も楽なようで、けっこう社会的に良くはないし、自己精神管理も大変だし、年取ってからの心配も一杯ですね。独身者にも家族の悩みある人多いですね。大企業の人は別ですが、それ以外の方は経済的不安も多し。

(でも扶養義務のある家族がない場合は、生計を担う男性より楽ですね)

で、何となくあらひろこさんて、人から見たらうらやましいように見える部分がある方ですが、この人はそれにけっこう押しつぶされそうなときがあるのかなぁ?と思えた今日のライブでした。

何でもがんばり屋で、オールラウンドに何でもできるように見えるのですが、それにしてもやはり家庭、夫と子供がいて、アーティストとしても「一の線」で活躍していくのは、大変なことなのだと思います。

そしてあらさんが、このように大活躍できるのは、素晴らしい、ご理解あるご主人と子供さん、そして協力的な共演者の方々に恵まれたからだと思います。

ファンとして、どうかこれからもずーっとがんばって、両立して、素晴らしい演奏活動を続けてほしいです。

ここで、あらひろこさんの活動とご縁の深い
Hard to findのことも関連話題として、混ぜますね。


HtFのリーダー夫人小松崎操さんも、素晴らしいミュージシャンで、
母であり妻でありますね。陰では本当にとても大変だと思います。
ただ、ご主人が「あの健さん」だから、力強いと思いました。

アーティスト同士だけでなく、一般企業でも医療福祉業界でも、
「同業者同士」は大変だと言われます。
「できれば避けたい」と言っているのを、何回も聞いたことがあります。

でも「画家は画家にしか惚れない」と昔思ったことがあるのですが、
本当に惚れるのは、同業者同士だと思います。ただ、結婚になるといろいろ大変。それは又別の問題ではないでしょうか。

でも小松崎家は全員同業者。
そう、健さんは音楽を心から愛しています。
確かにたまたま操さんは外見も中身も本当に素敵な
得がたい女性です。学生時代は「学校のマドンナ」タイプ。

でも健さんに特により感じるのは、男であろうと、女であろうと、
とにかく「音楽を分かち合える」ということも、とても重要なのだと思いました。
サラリーマンを捨てて、収入の不安定なアーティスト、その中でも生活の大変なアコースティック音楽に一生を捧げるHtF。

 だから健さんは奥さんが、あれ程の素晴らしいフィドルを演奏しないと、満足できないのだと思いました。
 北海道のインディーズの他民族音楽の中心として、
私の憧れの音楽一家の小松崎家。
 こういうリーダー健さんの下で、奥さんも愛娘さんものびのび音楽に命をかけていけるのだと思いました。

 ジョン・レノンなら、操さんは「ヨーコ」にならなければならなかったかもしれない。でも、操さんは別に健さんにそういう要求はされないようですね。「ヨーコ」は私から見ても、偉大で素晴らしい才能豊かな女性だと思います。でも一面「女大学現代アートバージョン」ですね。

(まあ、類まれなる音楽能力のある、N.Yで活躍するアーテイストで、アメリカ最高クラスの女子大出の、安田財閥令嬢と、世界的ポップスの大スター「ビートルズ」の、リッチ&フェイマスなジョン・レノンの組み合わせは、当時憧れの的になった割りに、
現実問題、一般的でない特殊な例のような背景がありますね。

ただ、ソロになってからのジョンの音楽、あのボーカルは本当に奇跡のように素晴らしいです。あの声と歌い方は世界をゆるがしましたね)

沢山のHtFのライブを見ていて、何となく感じたのは、
健さんは「ヨーコ」を望まない人なのかな?ということでした。
何かそういうの、一見保守的に見える健さんの、新しさのように思えることがあります。
健さんは、何でも自分でやってしまう人だし。

うん、そして健さんは、やはり死ぬほど音楽が好きなんだと思います。

まあ、HtFのケルト音楽の中でも、中心的なアイルランド音楽には、
音楽一家のユニットがけっこういますから、それもあるのかもしれないですね。

健さんご自身は、リーダー(指揮・旋律楽器演奏者・リーダー業務・営業・
マネージャー・広報等々)、で本当に大変に思えます。だけど、奥様の操さんのこと以外でも、とにかく健さんがどんなに音楽が好きか、それがリーダーとしての器にすごく影響しているのだと思います。

そして、それが時として得がたい深みをかいまみせてくれることのある、HtFの音楽に現れているような気がしています。
このブログに何度も出てきた程、メジャーなユニットのリーダーと違って、インディーズのリーダーは何でもしないとならないから、本当に重い仕事だから。

まあ、どんな家庭だって、先のことは分からないです。何があるかなんて。でも、私は小松崎家の幸せを末永く願っていますし、
仮に何があっても、それはそれで、得がたいプロセスを踏んでがんばってきたのだから、何にせよ素晴らしいのだと思いました。

………..とそして、このライブ、カンテレのソロで一曲だけ、
私の大好きな種類の、カンテレ演奏がありました。

題は「トナカイの子守唄」。
この曲名を聴いたとき、私は思わず吹きだしそうになりました。とても、そういう可愛らしい演奏には思えなかったからです。

フィンランドの、ハープみたいな弦楽器カンテレ。
弾き方によっては、「珠玉のオルゴール」のようにも聴こえる楽器。
これは、アイルランドのハンマーダルシマーも同様。
そういう音楽はとても人気があって、オルゴールっぽいCDは売れているようですが、でも私はそういうタイプの演奏は、好みでないのです。
(個人的趣味)

 演奏家は使い分けていて、こういうアットホームなクリスマスライブの場合は、そういうの喜ばれるので演奏することも増えると思います。
 今日も、多くはそうだった。バロック的な格調とオルゴールのような幻想的でかわいらしい演奏。

 けど、この「トナカイの子守唄」は違いました。
もう、最後は身を乗り出して拍手していました。

 この日の他の演奏は優等生のお姉ちゃん(あらさん)と、気楽な妹に例えましたが、
この演奏は妹には聴かせられないですね。大人になってから。

 カンテレの木肌をさするように、身をそそぐように、カンテレの方に体を傾けるあらさん。
 楽器の演奏の官能は、よく男女のことの官能になぞらえられるのですが、やはりこれは近いけどかすかに別のもののように思えます。
 ただ、男女にたとえる必要はないのですが、他に言いようを探すのも大変かも。

 弦と弦のあわい、柔らかい、息を詰めるように紡ぎ出される音色。
ここはあらさんだけ。このカンテレとあらさんだけの時間。あらさんとカンテレ以外何も存在しないみたいに。

 この曲を聴いてて私がときめいたのは、
それがあらさんの、ひみつのこと、だったからなのかもしれないですね。

(…..なーんちゃって)

昔、「ピアノレッスン」という映画を観ました。
すごい映画でしたが、あれはヒロインと男が両想いになり、しかも男に責任感があり、しかも愛が続いたから幸せになれたのだと思います。

でないと、ただの許されざるセクハラですね。ひどい映画とも言えますね。

あらさんて、どっかあの映画の「セクハラ」部分を抜いたようなことを思い出させる方です。

ただし、あらさんのご主人を遠目で見たことありますが、あの映画みたいなイヤな夫とは似てもにつかない、音楽好きの、ご理解ある、しかも素敵な方ですね。

私が言いたかったのは、カンテレとあらさんが、
どっか、かすかにせつないということでした。

あらひろこさんHP

(C)

(2003年3月初アップロード。ブログ移行前です。)